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暴力と平和

写真 Malcolm X / CBC Radio · Posted: Feb 21, 2020 6:41 PM ET
https://www.cbc.ca/radio

独立する方法は1つ
他人に頼るべからず
自分の手でつかめ

誰も独立をくれない
誰も自由をくれない
平等も正義も
他人からは得られない

人間ならば自分でつかめ
できぬなら得る資格はない

- Malcolm X, 1925.5.19 - 1965.2.21

Black Lives Matter
African-American Civil Rights Movement

私を含む殆どの東洋人は、アメリカで黒人であることの意味を、彼らがどういう思いで人生を生きているのかを知らない。そして同じく彼らもまた、日本・韓国・中国・インドなど東洋を囲む長く重い歴史の影と伝統の中で生きることについて理解できない…。

今もなお、どれほどの黒人が、民主主義を装った拝金主義、政府のプロパガンダやそれによる不条理な法律、巨大な刑務所産業を掲げて堂々と気高く正義を語る政治家によって合法的に抑圧されているかに目を向け、その意義を見出そうとする人はあまりいない。
…。

全ての「命」において「選択」はない。そして全ての「生」において命は、必ず「存在し得る全ての選択の外側」にのみ存在する。だからこそ、全ての命は平等であり続け、同じ尊厳をもって受け入れられるべきである。

それは決して遺伝子・出身・言語…あらゆる環境の違いに左右されない何か。人が語り得るもの「それら全ての外側」で成り立つ「何か」であり、あらゆる言葉、あらゆる法律や憲法、いかなる手段を用いても説明することができない。命は、全ての表現の外にある「何か」、あらゆる環境の「違い」や人間の「理解」を超える「存在」そのものである。
…。

【暴力】【デモ】【人種差別】【Black Lives Matter】
しかし、普通の人にとって「命」とは、決して直観的には感じられないもの、それはただスマホの中に存在するニュースの話、有名政治家のまわりに付き纏う「遠い国の揉め事」それ以上もそれ以下でもない。

【パワハラ】【賃金格差】【コロナ疲れ】【育児休暇】
そう、私の目の前には常に「遠い国の揉め事」より遥か身近な問題、乗り越えなければならない「巨大な日常」という壁が、とてつもない威力を持って立ちはだかられているのである。
...。

「暴力」とは何だろう。
それは単に、「被害者と加害者の関係」の中に限られてしまうものだろうか。目に見える殺人や事件、そして暴言やイジメ問題に限られたものだろうか。

比較と妬み、悪口と正当化を繰り返す日常に生きる私たちが、その中の無数の矛盾と偽善に苦しむ人々を見て見ぬふりをし続けること。ちっぽけな世界に閉じこもったまま、特定の経験や知識を盲目に従い、自分の日常とは無関係な出来事については簡単に結論付けて片づけること。それから再び日常の偽善に戻っていくこと。これら全てに気づかないことこそ「暴力」ではないだろうか。

暴力とは、指導者の政治判断によって変わる法律、その時代の常識によって定義されるものだろうか。それとも、日常を囲むこの全世界で、今行われていることを、「白か黒か」「左か右か」「またはそれ以外か」と… 自分の背景や利害関係から比較し、その中で都合の良いものだけを選び、関心を向けること。また同じく、都合の悪いことは非難したり、無視し続けることだろうか。

どうして人は、井戸の中の蛙のように、外の世界には目を向けず、自分をちっぽけな世界に閉じこめたまま、暗くて狭い井戸の中を飾ること、その中でよりきれいで、より居心地の良い場所を見つけることに、これほど夢中になるのだろうか。
...。

それは決して「暴力とは何か」を見出すことのなかった、私たち親の責任だろうか。それとも、その親も同じく暴力の犠牲者の一人にすぎなかったからだろうか。

私たちは今、人種や国籍、イデオロギーや宗教、あらゆる区別や分離を当たり前のように押し付ける世界。根強い拝金主義、その達成としての成功や幸せを人生最大の目標として掲げるこの世界を、ありのまま見つめているのだろうか。

もしその事実から目をそらし、ちっぽけな自分の世界だけを見つめている限り、問題はいずれ偉大な指導者が解決するであろうと考えている限り、自分はただ平和に暮らしたいと思い続ける限り... 人はこれからも軽い論評でそれらについて語り、傍観者であり続けるだろう。数年・数十年後に過去を振り返り、「そういう時代もあったよな」と、全世界への一部、またはその責任を担う当事者としてではなく、新聞を読む購読者のように自分を分離し、無関係な部外者として見つめ続けるだろう。

「平和に暮らしたい」
組織やシステムに押しつぶされ、目標や成功そしてその達成で感じる自己満足や快楽を追い求めるだけの人生。長い人生の中で、決して「自己満足とは何か」「平和とは何か」を問うことなく、「平和的な服従」の中を生きる人生。

その目標と願望への「ステップとしての今」を生きることで精一杯である私たち親は、その平和と言われる服従が、社会の力を巨大化させ、個人を無力に感じさせていることに気づくだろうか。それどころか、自ら「個人の無能さ」を言い訳に、自分そして子供たちを、自らの描く理想や狭い願望の中に閉じ込めて生き続けるのだろうか。

#BlackLivesMatter

ハッシュタグやあらゆるコメントの中、自己満足や互いへの非難の中にあるもの。日常と世界との分離が、それによる比較が、存在し続ける限り、私たちは人種・国籍・地域・教育・伝統… ありとあらゆる無意味な比較によって作り上げられた色眼鏡で物事を考え、人生という狭い井戸の中を生き続けるだろう。

人は、自分の羨望と願望が、日常に何をもたらしているかを見つめない。

世界で起きているあらゆる差別と残酷さが、自分の日常とかけ離れていないことに気づかない。

差別による殺意と無数の暴力が、自分を否定する者に抱くその感情と少しも変わらないことに気づかない。

そしてもし気づいたとしても、「願望を捨てること」「平等であり続けること」という、また新しい願望を作り出し、それを達成しようとしていないか。
...。

「平和」とは何だろう。

それは暴力の反対側に存在し、暴力によるあらゆる問題を解決する観念もしくは理想だろうか。平和とは、核兵器・最新鋭戦闘機....それを達成するための軍備の拡大、あらゆる暴力的な手段を用いることを正当化する偉大な価値だろうか。そして、長い年月の間それらを駆使して無数の出来事や犠牲を払った後に、訪れる「結果としての何か」だろうか。
それは、常に今この瞬間には存在しないもの、この矛盾と暴力が立ち去るときに初めて現れる「未来のどこかに存在する何か」だろうか。人生の矛盾と偽善に気づくことなく、決して自ら「平和とは何か」と問うことのない私たち親が、その問いを子どもに託すべき何かだろうか。

あなたにとって「平和」とは何ですか...。

...。

平和は理性の結果ではない。にもかかわらず、もし組織宗教を観察してみれば、それらがこの精神による平和の追求に囚われていることが分かるだろう。真の平和は、戦争が破壊的なのと同じぐらい、創造的で単純だ。そしてその平和を見出すには、人は美を理解しなければならない。

(略)

もし君たちが、たんに財政的その他の安定によって、あるいは一定の教義、儀式、言葉の反唱によって平和を持つだけなら、そこには何の創造性もない。そこには、世界の根本的革命を引き起こそうとする、何の切迫感もない。
そのような平和は、たんに自己満足とあきらめに帰着するだけだ。が、君たちの中に愛と美についての理解があれば、そのときには、たんなる精神の投影ではない平和を見出すことだろう。
創造的であり、混乱を除き、そして自分自身のなかに秩序をもたらすのは、この平和なのだ。が、この平和は、それを見つけようとするいかなる努力によっても訪れない。それは、君たちがたゆみなく見守っているとき、醜いものと美しいもの、善と悪の両者、人生の全ての有偽転変に対して鋭敏なときに起こる。
平和は、精神によって作りあげられるような、ちっぽけなものではない。それはとてつもなく大きく、限りなく広く、そして心が豊かなときにのみ理解されうるものなのだ。

- Jiddu Krishnamurti / 未来の生 -

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