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がんと、ちょっと変な家族と平凡に生きてきた。

大学4年の春 就職活動をしていたときのこと。

ある企業の最終面接で
「ちょっと難しい質問かもしれないけど、」
と言われた上で面接官からこう聞かれました。

「もし自分をコピーした人間を作るとして、
 自分が今までしてきた経験の中から
 1つだけコピーに経験させる
としたら
 いつのどんな経験をさせますか?」

それまでいろいろ面接対策をしてきましたが
このような質問は想定外で、
その場でぱっと頭の中に思いついた答えを
素直に面接官に伝えた記憶があります。

聞き方はすこし複雑かもしれませんが、
この質問の意図としては
今の“私”という人間を形作った経験は何か」ということだったのではないかと思います。


…前置きが長くなりましたが、
今回の記事は私のプロフィールであり
これまでの半生の記録になります。

普段はライフスタイルについて
気ままに書かせてもらっているnoteです。

平凡な人間ではありますが、
少しでも特筆できることがあればと
書き出してみました。


1、ちょっと変な家族と私

•いたりいなかったりする父の謎

最初に記憶があるのは幼稚園児の頃です。

友達から、
「ユキちゃんは恥ずかしがり屋だね」
と言われるような
自他共に認める内向的な性格でした。

当時は小さなアパートに
母と姉と暮らしていたのですが、
2日に1度だけ家に帰ってくる父がいました。

幼い私はよく分かっていませんでしたが、
子どもながらに寂しさや違和感があったのか
父が自分を置いてどこかに行ってしまう夢
ときどき見ていたのを覚えています。

あとになって分かったことは、
実は父はもともと別の女性と結婚しており
その婚姻関係を解消していない
ため、
私の母とは籍を入れられていない状態
ということでした。

事実婚、内縁関係、愛人…
どの言葉が正しいのかよく分かりませんが、
とにかく私の父と母は
ちゃんとした夫婦じゃないんだ、
そして私は愛人同士の間に生まれた子なんだ
と感じたのが当時の印象です。

なぜそのような関係になったのか、
詳しい事情は分かりません。
きっと色々あったんだろうなとは思います。

いつか父と母がちゃんと話してくれるのでは
と昔は思っていましたが、私が成人しても、
結婚してもついにその日は訪れませんでした。
(姉だけは祖母から話を聞いていたようで、
 それを私に教えてくれました)

私は外面的には母子家庭とされていたので
就学に関わる手当などを受けていたのですが、
本当は父がいるのにお金を支援されることに
子どもながらに罪悪感を感じ
父の存在は隠さなければならない
後ろめたさを感じていました。



話は変わりますが、そんな私たち家族にとって
一番の修羅場はお正月でした。

小学校の途中ぐらいから
もう父は2日1回帰ってくるのではなく
毎日私たちの家に住み始めていましたが、
大晦日の夕方になると
毎年必ず1人でどこかに行ってしまい
年が明け元日になってから帰宅するのでした。
(多分自分の実家に行ってるのだと思いますが)

小さい頃は「そういうものなんだな」としか
思っていなかったのですが
年々母が不満を感じ始め、最終的には
「今年も行くならもう二度と家には入れない」
と大喧嘩をするようになりました。

正式に夫婦の手続きをしていない母としては、
父が正月を別の家で過ごすことは
自分たちは父にとって本当の家族じゃない
言われている気持ちになるのだと思います。

しかし母がどんなに父を止めようとしても
父は毎年出ていってしまうので、
母は本当に鍵をかけて父を締め出し、
戻った父が何度も何度もチャイムを押すので
私は鳴り止まない音に発狂しそうでした。

父からは「ユキ、開けて」とLINEが来て
母からは「絶対開けるな」と言われ。

私は別にどちらの味方もしたくないのですが、
ドアを開ければ母を裏切ることになり
だからと言って父を無視しづけるのも心が痛み
板挟みになってただただ泣きながら
時間が過ぎるのを待っていました。

また別の年のお正月は
母が父に一切行方を告げず家出したりと
(私たちは聞いていましたが、絶対言うな…と)
毎年何かが起こるのが
我が家のお正月の風物詩になっていました(笑)
本当にお正月が来るのが憂鬱でした。

そんなに嫌なら正月に帰省しなければいいと
私としても思うのですが、
姉が実家に住んでいるので
姉1人に背負わせてはいけないという思いと、
なんだかんだ両親を見捨てられないというのが
毒親を持つ子どもの心理そのものだなあと
自分ながらに思います。

子どもの頃の育った環境によって
大人になってからも生きづらさを感じる人は
アダルトチルドレンと言われていますが、
私がそれに当てまるのだとしたら
6つのタイプのうち、完全にピエロでした。

家の中が暗い雰囲気になりそうになったら
わざとおどけたことを言って明るくする。
私が皆を笑わせなきゃ、と思っていました。


なんだかんだありましたが、
私たち家族の関係は悪いわけではありません。
今でもときどき家族で食事に行ったり
旅行に行ったりと仲のいい方だと思います。

ただずっと感じているのは、
お互いどこか本音を隠し合っている
ということです。

父と母の関係について、
今後も両親からの説明はないだろうし
あえて私から尋ねることもないと思います。
親とはいえ他人なので干渉する気もないです。
やや不自然な関係かもしれませんが
今はこれで良いのかなと思っています。


•強烈なインパクトの祖父母

そんな曖昧な関係の両親の元で育ち、
金銭的な余裕もあるわけではなく
母は毎日パートに出てくれていました。

その間、私と姉のお世話に来てくれていたのが
すぐ近くに住んでいた祖父母です。

素直に言うと、私はこの祖父母が嫌いでした

祖父は私たち孫にはとても優しく、
色んなものを買ってくれたりしていましたが
祖母に対しては日々暴言を浴びせていました。

暴力も頻繁にあり、あるとき祖母は
「祖父から金属のタライで殴られた」と言って
頭から血を流して避難してきました。

幼い頃は自分に優しい祖父が好きでしたが、
年齢が上がるにつれ祖父の二面性を不快に感じ
受け入れられなくなってしまいました。

ちなみに大学で福祉を学んだ人間からすると
自分が対象でなくても家庭内に暴力があれば
心理的虐待という立派な虐待になりますので、
悩んでいる方はぜひ専門家へご相談ください。

一方、祖母は毎日死にたがっている人でした。

私たちが小学校から帰宅し
母が仕事から帰ってくるまでの数時間、
祖母はときには涙を流しながら
「自分がこれまでどんなに酷い仕打ちを
 祖父やその家族から受けてきたか」
「祖父は私と世間体のために結婚しただけで
 私は愛されていないんだ」
「人間なんて信じてはいけない」
「はやく死んでしまいたい」という旨の話を
毎日懇々と私たちに聞かせていました。

祖母は人の悪口も日常的に言う人で、
「祖父の母は学がなく字も読めない人で
 いつも小汚い格好をしていた」だの
「祖父が若い頃入院したとき、
 看護師とベッドに寄り添って座って
 いちゃちゃして気色悪かった」だの
私たちが全く聞きたくもない話を
何度も何度も繰り返し聞かせてくれました。
(小学生に何の話をしてるんだか…)

余談ですが、私はときどき
自分には人を思いやる感情が欠落している
と感じることがあります。
(例えば、体調が悪そうにしている人を見ても
 心から心配することができない など)

それは毎日死にたがっている祖母を見て、
相手を本気で心配し続けていたら
自分の心が消耗してしまう
無意識にバリアを張ったからなのかなと
自分なりに解釈しています。

祖母はかなりの心配症でもありました。

小学校は集団登校でしたが
朝は私たちが学校にたどり着くまで
毎日登校列の後ろから着いてきて、
下校時は校門の外で待っており
友達と話しながら帰る私の後ろを
少し離れたところからずっと見ていました。

それは小学生6年生になるまで続き、
友達から「ユキちゃんのおばあちゃん
いつも着いてきてるよね」と言われるのが
思春期に差し掛かった私にとっては
どうしようもなく恥ずかしいことでした。
(今考えると登下校は危険も多いので
 ありがたいことなんですけどね)

潔癖なところもあり、
私が学校に持っていく持ち物は
全て1つ1つビニール袋に入れられていました。

それがすごく嫌で、
一時期ビニール袋のカサカサした音と感触が
受け付けられなくなりました。
(今はもう大丈夫です笑)


今となっては、祖父から暴力を受け、
自分の一人娘(私の母)が
どこかの男と結婚もせずに子どもを産んだら
死にたくもなる祖母の立場も分かります。

でも当時まだ幼かった私には
祖母を思いやる余裕なんてありませんでした。
ただただ祖父母のことが嫌いでした。

ちなみに母と祖母は仲が悪かったと思います

母は祖母に対して
「子どもたちに『死にたい』なんて言葉
 聞かせるな!」と怒ってくれてましたし
(そりゃそうだ)、
「そんなに祖父といるのが辛いなら
 離婚するかシェルターに入るかしろ」と
具体的に行動させようともしていましたが
祖母には長年の生活を変える勇気も行動力も
なかったようで、状況は変わらずでした。

一度母と祖母が私たちの目の前で
取っ組み合いのような喧嘩をしたことがあり
(母と我々はお風呂中だったので母は全裸で)
私はなぜかライオンキングのフィナーレで
シンバとスカーが組み合って戦うシーンを
思い出しながらその喧嘩を見ていました…笑

そんな祖父母は私が大学を卒業する前後に
亡くなりました。

亡くなるまでの数年の間、
祖母だか祖父だかどっちか忘れましたが(←)
どちらか1人が体調を崩して入院したため、
2人は病院と施設とで離れ離れになりました。
(このあたりから私は大学進学で家を出ており
 母から聞いた話なので記憶が曖昧です;)

そんな入院中に私含め家族全員で
病院へお見舞いに行ったときがありました。
そこで久しぶりに会った祖父と祖母は、
お互いを思いやる言葉を掛け合いながら
手を取り合って泣いていました。

私はそんな2人の様子を見ながら
微塵も心を動かされることなく、
これまで散々仲の悪いさまを見せつけられて
私たちはずっと巻き込まれつづけてきたのに
最期は仲直りしました、ちゃんちゃん、なんて
どれだけ都合のいい話なんだろうと
無性に腹が立ったのを覚えています。(黒い笑)

先に亡くなったのは祖母でしたが、
祖母のお葬式に参列した祖父は
また涙を流しながら手を合わせており
そんな祖父を見ても私の心は
ただただ冷めていく一方でした。

祖父母が亡くなったあと、
母は私たちに突然長文のLINEを送ってきたりと
一時期やや不安定になりました。

LINEの内容は
「はやく結婚して地元に戻ってきて。
 はやく孫の顔を見たい。
 私が高齢になったら近くに住み面倒を見ろ。
 孫ができないなら私は第二の人生を歩む」
みたいなことです。

母にとしては、父とは結婚していないため
本当の家族は私たち娘しかおらず
やや依存的になっているのかなと思います。
私も姉もそこは適当にスルーしています。


•家族との思い出を振り返って

とにもかくにも祖父母がいなくなり
一つ心の重荷がなくなった私でしたが、
あるとき大人になってから
カウンセリングを受ける機会がありました。

そのときに祖父母や両親のことを話すと
それって一般的には辛い経験だと思うのに
 なぜオギノさんは明るく話せるのか

と問いかけられたことがあったのですが、
そのときは理由は分かりませんでした。

その後、別のカウンセリングの際に
「トラウマに関する問診」のようなものに
答える機会がありました。

1つ1つ質問を見て行く中で、
当時のことを思い出すと非常に辛くなる
動悸がしたり体がこわばる感じがする
夜眠れないことがある」などとあり
それらには私は全く該当しなかったので
「私の経験はトラウマというほどのものじゃ
 なかったんだろうなあ」と思いながら
回答を進めていました。

しかし、その中に出てきた1つの質問
その経験について考えると
 そのときの感情が思い出せないことがある

という文章を見た瞬間に手が止まり、
そのすぐ後に涙が出そうになるような
何か込み上げてくるものを感じました。
(質問文はうろ覚えなので正確ではないですが)

私にとって子どもの頃の経験は
「辛かった」という印象のものではなく
言うなれば何も感情が湧かないという
」の状態になるのかなと思います。
だから自分の中に起こったことなのに
どこか他人事のように感じる自分がいるんだ
とそのときすごく腑に落ちました。

しかし「無」と言っても
それはただ感情をしまいこんでいるだけで
私の中で確実に起こったことなので、
少なからず影響を与えたのは言うまでもなく
大人になった私は見事に性格を拗らせました笑

夫にもいい年していつまでコミュ障やってんだ
と怒られますが、本当その通りだと思います。
結局言い訳してるだけなんですよね。
私もいつまでも自分の性格を
他人や環境のせいにして生きたくはないので
少しずつでも変わっていきたいと思ってます。


家族についての話はこれで終わりです。

ここまで家族のことを赤裸々に書いたので
一応弁解しておくと(笑)、
母は普通に常識のある立派な人だと思います。
ほぼワンオペで祖父母の介護もありながら
愛情を持って私と姉を育ててくれたこと、
本物に感謝しています。

2、がんサバイバーとなって

•中学生、突然のがんの告知

家族と色々ありつつも、それなりに
平凡に過ごしていた中学時代ですが
ある頃から右上腕に痛みを感じ始めました。

それは我慢できないような激痛ではなく、
筋肉痛のような重だるさというような
何となく気になるなという程度のものでした。

当時私は部活で重いものをもつことが多く
それで筋肉痛になったのかと思いましたが、
なかなか治らなかったので念の為にと
母が近所の病院に連れて行ってくれました。

そこからは一気に事態が動きはじめました。

レントゲンを撮ってもらった後
なぜか母だけが診察室に呼ばれ、
大きい病院での再検査を勧められました。

(後から聞いた話ですが、母はこのときに
すでに病気の可能性を告知されたようで
ショックで気が遠くなって倒れたそうです)

その後大学病院の予約を入れてもらい
採血やレントゲンなどの検査をたくさんして
診断されたのは骨肉腫でした。

そこからすぐ入院することになりましたが、
当時まだ何も分かっていなかった私は
1〜2週間入院したらまた学校に行けるだろう
と超楽観的に考えていました;
まさかそこから10ヶ月病院で過ごすことに
なろうとは全く想像していなかったのです。


•入院生活、抗がん剤治療

そんなこんなで始まった入院生活ですが、
次第に自分でも病気について調べ始め
これは大変なことになったのかもしれないと
さすがに思うようになりました。
(お医者さんはちゃんと説明してくれていたと
思いますが、私の頭が悪かっただけです…)

中学生がインターネットから
正しい知識を得ることはなかなか難しく、
骨肉腫で亡くなった方の話や
肢体を切断した方の話ばかりを見て
自分もそうなるのかもしれないと思い込んで
家族に隠れてこっそり泣いていました。

次第に医者の先生から
ユキちゃんは発見が早かったし、
 他の場所への転移もないから助かるよ

という声をかけていただいて、
きっと大丈夫だという思いを胸に
抗がん剤の治療に臨むことになりました。

私が受けた抗がん剤には3種類あって、
一番副作用が軽いものが透明次が黄色
そして一番副作用が辛いものが赤でした。

透明の抗がん剤は軽度な吐き気程度でしたが、
赤の抗がん剤は吐き気としんどさが比ではなく
まともに歩くこともできなかったので
ベッドから近くのトイレまで行くために
車椅子を借りて乗せてもらっていました。

また抗がん剤投与中は免疫が落ちるので
基本個室から出ることができず、
家族や医者の先生も病室に来るときは
完全防備の格好で対応されました。

この3種類の抗がん剤を順番に行っており、
(透明→黄色→赤→透明→黄色→…)
投与が始まる前に点滴の管を刺すのですが、
副作用がつらすぎるためか
身体が勝手に拒否反応を起こしはじめ
点滴を刺すと毎回熱を出して
薬の投与を遅らせなければならなくなる
という
迷惑行動を繰り返していました。
(私がわざと熱を出しているわけではないので
仕方ないのですが…)

よく病気をどう乗り越えたのかと聞かれますが
当時の私の感覚としては
頑張ってくれたのは医者の先生たちと家族で
私は言われたことをその通りにしただけです。

治療を受ける以外の選択肢がなかったのは
また若かった故の利点だと思います。
大人になってから病気になると
仕事があったり、養う家族がいたりと
たくさん考えなければならないことがあって
大変さも倍増するのではと思います。


•手術、そして完治まで

抗がん剤で腫瘍がある程度まで小さくなったら
手術で取り除きます。

私の手術は10時間かかったそうです。
(私は全身麻酔で寝てたので全く知りませんが
病室で待っていた母から聞きました)

手術が終わってから数日経って、
経過の検査も終わった後、医者の先生が
もうユキちゃんの中にがんはないからね。
 よく頑張ったね
」と言ってくださいました。
(母はその言葉に泣いていました)

その後は再発を防ぐために
また何度か抗がん剤を投与した後、
10ヶ月で無事退院となりました。

退院後も定期受診をして経過観察しましたが
術後5年という期間もクリアし、
完治と考えていいよと言っていただきました。

•がんサバイバーになって思うこと

骨肉腫は亡くなる方もいる病気です。

なぜ私は助かったのかと考えたとき、
ただ本当に運が良かったのだと思います。

痛みに少しの違和感を感じて病院に行った。
その病院が、たまたま
骨肉腫に強い先生がいる大学病院と提携があり
すぐにそちらに紹介してもらえた。
本当に偶然が重なって今私はここにいます。


私が今の夫と出会うのはもっと後の話ですが、
夫は学生時代に同じ骨肉腫という病気で
友人を亡くした経験がありました。

私ががんで生き残った意味を考えたとき、
同じように病気や障害で苦しんでいる人が
強く生きられるように
力になることが
これからの私にできることだと
おこがましくも使命のように感じました。

詳しくは書けませんが、現在の私の仕事は
そのことから繋がって実現したものです。


この記事の冒頭で、就活時に面接官から
「私のコピーに経験させたいこと」について
質問されたという話をしましたが、
そのときの私の答えをまとめるとこうです。

辛かったけど、がんの経験があったから
やりたいことの気付きに繋がったし、
今も物事を考える上での原点になっているので
どれか1つと言われたら
がんになった経験を選ぶと思います。

がんになって良かったとは決して思いません。
あくまで自分の今までの経験の中から
その後に大きく影響を与えたのは
がんの経験だったと思っているという話です。

できればもう同じ経験はしたくないですし
病気で辛い経験をする人が減って欲しいと
心から願っています。
書き方が未熟で配慮が至らない部分があれば
本当に申し訳ありません。

骨肉腫は運良く完治しましたが、
次また大きい病気になったら
そのときは死ぬのかもしれないな

どこか死を覚悟している節が私にはあります。

人生の終わりが突然やってくる可能性
身をもって理解しているつもりです。

だからこそ、後悔のないように
やりたいと思ったことはすぐに全部やる
「いつか」なんて存在しないかもしれない
そんな思いで日々を生きています。


おわりに

プロフィールを書こうと思ったときに、
私にとって欠かせない経験として
「家族」と「がん」の2つが出てきました。

家族との経験を振り返ると
よく非行に走らなかったなとか思いますが、
中学生でがんになり反抗期をする暇もなく
うまい具合に悪い方に転びすぎずに
今の私になったのかなと思います。
どちらの経験が欠けても今の私はありません。

ちなみに今の私に至る欠かせない要素として
さらにもう1つ付け加えるとすれば
「結婚」だと思います。

自己肯定感皆無、承認欲求の塊だった私が
なんだかんだ今の自分も好きかもと思えるのは
夫のおかげです。

出会った頃は今より性格も拗らせていて
夫にはたくさん嫌な思いをさせました。
本当にごめんなさい。
でも夫のおかげでかなり前向きになれました。
感謝してます。

今の私の人生の目標は、
毎日ただ穏やかに平和な日々を送ることです。
(向上心がないと言われそうですが…)

休日に早起きして夫と近所を散歩することが
何より幸せな時間です。
おじいちゃんおばあちゃんになっても
こんな風に過ごしていけたらいいな。


以上、がんと変な家族とともに
そこそこ平凡に生きてきた私の記録でした。

書き始めたときはこんなに長くなると
思っていませんでした(すみません)。


ここまで読んでいただき、
ありがとうございました!


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