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行政のサポートと息子の「発達の凸凹」

僕は聖教新聞に勤めて16年目の記者です。妻、小学1年の息子、幼稚園年少の娘と4人で暮らしています。2019年に第2子が誕生し、翌年にはコロナ禍のステイホームを経験して、子育てにもっと関わりたいと思うようになりました。そうした中、長男が「幼稚園に行きたくない」と宣言。小学校に入学してからも、学校に行ったり行かなかったりという今に至ります。家族と歩む中で、僕自身もメンタルヘルスを崩したり、部署を異動したり、いろいろなことを経験しました。それは、今も現在進行形で、僕という人間を大きく育ててくれています。そんなわけで、「育自」日記として、思い出を含めて書いていきたいと思います。

「今の時代は何でも早い」という言葉に

息子が幼稚園に行かなくなり、さてどうしようかと考えた時に、職場の産業医の方が「行政にしっかり相談するといいですよ」と教えてくれました。

インターネットで調べて、まず電話したのが「子ども家庭支援センター」です。東京の区市町村にある、育児・子育てに関する悩みを聞いてくれるところなのですが、僕としては息子に関することに加えて、〝妻の心が少しでも軽くなれば〟という思いがありました。

それというのも、当時の僕は、出張で全国各地を歩き回って取材をしていたので、家では、妻と子どもたちだけでいる時間が多くなりがちでした。

2022年春に息子の不登園が始まり、2週間くらいたった頃でしょうか。僕が職場へ出かける準備をしていると、妻が自宅の階段でうずくまり、ポロポロと涙をこぼしていました。

「何でもないんだけど、ちょっと疲れちゃってね」

そのように言い、涙をぬぐう妻を見て、言葉が出ませんでした。1日の大半、5歳と2歳5カ月(当時)の2児の育児を一人でやる孤独。(それは今でさえ、妻と同じ密度では共有できていない大変さだと思います)
〝僕から何か具体的な対応策を講じなければ〟と思っていたところへ、産業医の方からのアドバイスがあったのでした。

さて、子ども家庭支援センターに電話し、相談員の方と面談して、妻にもセンターへ行ける日時を聞き、アポイントを取りました。
5月に入り、家族で何度かセンターを訪ね、面談をしました。妻だけを対象にした面談もあったので、部屋の外で息子、娘と遊んで待っていようと思うのですが、この頃の息子はかなり情緒が不安定で、片時もママのそばを離れたくないという状況でした。ママ90%、パパ10%(もいくかどうかという)くらいの信頼度で、下の娘にしても、息子と同じくママが大好き。

僕がセンターのロビーで子どもたちを相手に、おもちゃを駆使して遊んだり動画を見せたりしてみても、息子はママのいる部屋に突進していこうとするし、娘はすぐ泣き出すしというありさま。自分の〝非力さ〟を痛感するとともに、ボディーブローのように、体力と精神が削られていくのを感じました。

それでも5月中に、息子はセンターの相談員さんに慣れ(=罵倒とかをしなくなり)、次に臨床心理士さんと面談をしました。この面談は、息子を相手にしたものなのですが、これがまた大変でした。
部屋に入るのも嫌がるし、「帰るー!」と言って走り出すので、僕も走って追いかける。近隣には小さなショッピングモールがあり、そこで500円くらいの伸び縮みする動物やら深海魚やらのおもちゃを買い、喜ばせて戻っても、すぐまた「帰るー!」と走っていこうとします。

息子と手をつないで歩く

なんとか面談を終えると、心理士さんから「発達の凸凹」という説明を受けました。心理士さんいわく〝できることと、苦手なことの差が大きいので、周りが本人の性質をしっかり理解してあげる必要がある〟とのこと。

確かに、不登園になる経緯の中でも、すごく口達者だなと思うことがあったけれど、半面、親から離れることはできていないわけで、思い当たるだけでも「凸凹」、その通りだなあと思いました。

※わが子が不登園になった経緯はこちらに ↓

〝本人の性質を理解してサポートする場所〟として、心理士さんが紹介してくれたのが、民間の「療育」の教室でした。そこに通うためには、福祉サービスを利用するために自治体から交付される「受給者証」が必要とのことで、平日のある日、僕一人で役所へ申請に行きました。
受給者証の担当部署は障害福祉課なのですが、庁舎に入って、障害福祉課の案内掲示板を見た時、不意に胸がドキッとしました。

〝息子には障害があるのかなあ〟

障害の有無が、幸不幸を決定するのではないーーそれが、数々の取材を通して、僕が感じてきたことでした。
それでも、親として「障害」の文字を見れば、反射的に心が揺れるのだと思い知らされました。

庁舎内を、障害福祉課の窓口へ向かって歩きながら、かつて取材した一家のことを思い出していました。
障害があるお子さんは、僕と同い年の男性。そのお母さんは、お子さんの障害と向き合い、療育の施設で知り合った3人のママ友たちと共に、夫やきょうだいたちも含めた4家族で協力し、就労支援の作業所を立ち上げました。
そのお母さんが、取材の最後に語ってくれた言葉は、今も僕の胸に刻まれています。

〝息子が生きていくなかで、人から愛され、必要とされること。それが、私が目指した「幸せ」でした〟

そうしたことを思い出すうちに、障害福祉課の窓口に着きました。「受給者証の申請に来ました」と申告すると、シニア世代の職員の女性が対応してくれました。
状況のヒアリングがあり、僕はこれまでのあらましを話しました。子ども家庭支援センターでの相談や、心理士さんとの面談の経緯はもちろん、それ以前のことも。その職員の方は丁寧にメモを取りながら、話を聞いてくれました。

「幼稚園の年少と年中は、行き渋りながらも5割くらいは行っていたんですけど、年長から行かなくなりまして。『集団が嫌だ』とか『無理やりやらされることが嫌だ』と言っています。もうやめさせましたが、年中の頃は学習塾にも行ったりして、『嫌なことも頑張ることが力になるよね』と言っていたんですけどね」等々。

僕が、ひとしきり話し終えると、うなずきながらメモを取っていた職員の方が、こう言葉を返してくれました。

「今の時代は、何でもかんでも早いですよね。昔は幼稚園の頃って、ひらがなも数字も書けなくて当たり前だったですもんね」

その言葉が、僕にとっては、とても温かなものに感じられました。
息子が不登園になって以来、しばしば自問してきたからです。
僕が〝転ばぬ先の杖〟で、良かれと思ってやったことは、うちの息子にとって楽しく歩める歩幅であっただろうか? たぶんそうではなかった、と。
一方で、息子が周りのペースから外れることに不安が無かったわけでもありません。〝頑張れば通えるのかな? 自分もかつては幼稚園に通ったし〟と、たまには思ったりもする。

そんな、気持ちの板挟みの中で聞いた、「今の時代は何でも早い」という言葉が、〝もっとゆっくり歩いていい。あなたの判断は間違っていない〟という励ましのように感じられて、僕はうれしかったのかもしれません。

余談ですが、この半年後に偶然にも、別の市役所の障害福祉課で働く、創価学会の男子部員の人を取材する機会がありました。この時は電話取材で時間も限られていたので、僕自身の話をすることはありませんでしたが、心の中で〝あなたの仕事を尊敬しています〟と伝えました。窓口の十数分のやり取りで、人の心を勇気づけてくれる、尊い仕事だと思います。

そうして受給者証の申請を終え、僕ら親子は、療育の教室を訪ねることになりました。

(つづく)

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