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雑感記録(165)

【書評≠批評…?】


この記録が書かれているのは年明けではない。12月24日(日)である。既に僕は今年の(ここでは書かれているのは2023年ということになる訳で)noteは投稿せずというように決めたのでこの記録が2023年のうちに公開されるということはまず以て無いだろう。

しかし、日々考えることや思うことは様々に出てくる訳であって、それを自分自身でどうにかできるものではない。それは自然発生的に向こうからやって来るのである。どうしてもそれを僕には避けることが出来なくてこうして書き始めてしまっているのである。

さて、そんな言い訳じみた話から書き始めても仕方がない。前にも少し書いたかもしれないが、書き始めてしまったらあとは書かれた言葉に任せるしかないのであるから。


僕が今回書きたいのは、所謂「書評」と呼ばれるものについてである。

話は前日に遡る。12月23日(土)、僕は新宿駅に居た。来月からテレワークが出来るようになるとのことで、あらかじめテレワーク用の用品を購入しようと思ってのことである。人混みを避けようと思い朝イチで散歩がてら新宿駅西口のヨドバシカメラへと向かう。しかし、新宿駅は時間を問わず人で溢れている。「電車で来れば良かったかな」と後悔しても後の祭りである。

目的が決まっている分、買い物に時間はさして掛からない。ものの数分で買い物自体は終了した。店舗滞在時間は15分ぐらいだ。そそくさと店を後にした訳なのだが、新宿区民とは言え、実は新宿駅周辺で買い物することは滅多にない。強いて言えばニトリに行くぐらいなものである。折角時間もあるし、新宿駅周辺を散策するかと血迷ったことを考えとりあえず歩き出す。

しかし、正直なことを言えば、まあこれは以前の記録にも書いたが本以外のことにあまり興味関心が無いので行くところなんて限られる。そう、つまりは新宿駅周辺に行く用事は僕の場合3パターンしかない。①新宿駅西口のヨドバシカメラで必需品購入、②ニトリで生活必需品購入、③紀伊国屋書店で本を眺める。これぐらいしかない。昨日は①を完遂したので、残りの選択肢は僕にとって③しかない。

それで紀伊国屋書店に足を運ぶ。しかし、最近本をあまりにも購入しすぎているので買う気はサラサラない。というよりも、僕が新刊書店に行く目的も実はある。最近の本のトレンドのリサーチと昔の本の再販がなされていないかの確認をする為である。最近の小説を読むことに僕は未だ意味を見出せていないからこそ、こういう場所でのリサーチは重要である。とここまで書いてみると、恐らく僕が真に目的を持たずにブラブラ出来る場所は神保町しかないのかもしれない。

新刊書店はどこもそうだが、「本を購入してもらう」という場所でもある訳だから、書店員の人も購入してもらう為に様々な趣向を凝らしている。その姿勢には感服するものがある。コーナーを巡る度に現れる様々なポップの数々。これを作るには売り出す本をよく知らなければならない。しかも、それを短い文章で尚且つ来た人に対して興味をそそるような文章でなければ意味がない。その努力に感服するばかりである。

しかし、これは非常に申し訳ないのだが、あまりそそられるものが無い。あくまで個人的な感想だが。さらに申し訳なさついでに言ってしまうが、何だかそこに書かれた言葉も「消費財としての言葉」みたいな感じがしてしんどい。「消費を助長させる言葉」とでも言えばいいのかな?僕が嫌う「本の商品化」というのが推し進められている訳である。元も子もないことを言っているのかもしれないが。

そのポップに書かれた言葉を見ると、本の内容にも触れつつ、「ここがこの話を読むときのミソだぞ!」みたいな文言が並ぶのである。別にそれはそれで構わないけれども、正直僕はそれを読めれば十分である。その作品の内容知れたので「もういいや」となってしまうのである。しかし、この現象はしばしば起きるのである。それが僕にとっての「書評」なのである。


「書評」というと僕には新聞に掲載されているというイメージが強い。

実際に僕が居た山梨でも、山梨毎日新聞の土曜日のは見開き1ページを丸々使って「書評」が掲載されていた。今思えばあれはどこかに委託して製作しているものであり、山梨毎日新聞があの記事を製作しているとは到底思えない。それ程のクオリティであるのだ。僕はこの見開きの「書評」を読むことが実は密かに愉しみであった。

そこに書かれている「書評」を読むと、内容については勿論のこと、それに付随する、例えば「こういう思想と絡められるよね」とか「これを読むとこの作品が思い出される」とか書かれていて、僕はここに「書評」というか、その「書評」を書く人の個性が出ていて物凄く良いなと思っていた。そして「本を紹介するってこういうことなんだな…」と感心していた。

ところがだ。昨今ではそれこそnoteやInstagram、Xや個人ブログなど様々なSNSが発達し、僕も含めてそうだが自分自身の考えをいとも簡単に発信できるようになった。そうすると個人的に書かれる「書評」というものも、これも当然の如く発生する訳だ。それこそ#書評というようなハッシュタグもあり、簡単に様々な人の「書評」にアクセスすることが可能である。

それで例の如く、こういう話題を書くからには、僕もそれなりに今SNSで溢れている「書評」を見ねばなるまいと思いInstagramをメインに見ていくことにした。検索を掛けると多くの投稿が見られた。どんなものが「書評」として書かれているのかなと思い見てみるのだが、何だか「ん?これ「書評」なの?」というようなものが多く散見された。

勿論、書かれる対象は昔の作品ではなく最近の作品である。あと、これには驚いたものだがビジネス書や自己啓発本の「書評」まである。幸か不幸か、僕は最近の本を読めないので、逆にこういうSNSでの「書評」をフラットな気持ちで見ることが出来る訳だ。要は本当に純粋に知らないという心持でその文章に当たることが出来る。

しかし、どうだろう。何だか肩透かしを喰らった気分になった。


まず大きな特徴として、「ビジュアルで見せる」ということが見受けられた。

もう今では当たり前だが、画像の加工や編集など個人で簡単に出来る時代である。本の顔に対して自身のコメント、はたまた文章を横に載せることが可能だし、色合いや配置、はたまた自身の書いたイラストと併せて載せることが可能である。要するに投稿する人それぞれの性格が出るというか、十人十色のやり方があってまず以てここは非常に面白かった。

しかし、これは僕自身の好みの問題も当然あるだろうが、ビジュアルを意識しすぎなのではないかと思う。何と言うか「日本語読めないお前らに俺は/私は「書評」してやってんだよ」みたいな感じがしてしまったのである。つまりは、画像で見やすく紹介しているということであり、これこそ正しく僕が考えるところの「商品化された本」がそこには存在しているのである。

無論、人間が情報を得る時に眼から得る情報というのはおよそ7,8割だという事実があるのだから画像で見せるということは、作品を広く知らしめるという意味に於いては非常に有用な方法であることは間違いない。パッとほんの少し見ただけでも「その本が一体どのような本であるか」というのが分かれば伝えるという観点から見れば有用である。

ただ、そこに載せられる文字や言葉には限界がある。言葉は一瞬見ただけでは理解できない。これも当たり前のことである。パッと文章を一瞬見ただけで理解できるというのは僕を含めた一般人には到底できない行為である。そうすると本当に伝えたいことをたった数文字、幾つかの言葉で表現しなければならない。そうすると必然的に画像を増加するという方法を取らざるを得なくなる。今度は情報過多になる。

そもそもの問題として、僕は画像を主体として本について語る、紹介する、伝えると言ったことには限界があると思われて仕方がない。それに申し訳ないが、たったそれだけ、つまり①画像とたった数文字の言葉で紹介できてしまう本も所詮そこまでなのかなとも思うし、②逆に良い作品なのに投稿者の技量のなさで大したことが書けないのか、いやあるいは③投稿者の自己の利益の為に「商品化された本」を紹介することで将来的に利益が発生し、それを享受するためにわざとそうしているのかという3択になる。

いずれにしろ僕はどうも不思議で堪らない。要するに、言葉で書かれている作品を画像に変換しなおす必要性が何だかよく分からないし、画像といくばくかの言葉だけでは伝えられない作品の良さ、面白さというものが確実にあるように思われて仕方がないのである。

もっと言ってしまえば、「本を読んでるくせに、画像に頼ってまともな文章も書けない」ということを自ら示しているような印象を受ける。本当に申し訳ない言い方をしてしまうが、自分で「僕はこの本を読めていません」と豪語しているようなものではないのか?何度も言うようだが、読書とは読むことと同時に書くことでもある。僕が偉そうに言えた義理ではないが、そういったことを知らない人達が投稿する「書評」なるものを読んでも満足できないということは変なことなのだろうか。


さらにもう1つ大きな特徴がある。それは終始内容の説明と投稿者の感想で終わるということである。

これは「批評」の問題とも関わってくると思うので少し丁寧に書きたいと思う。僕は別に何も内容の説明をしてはいけないとか、投稿者の感想を書いてはならないということを言いたい訳ではない。ただ、何と言えばいいのか難しいのだが、つまり「こう感じました」「こう思いました」という文章を読まされて、その本が読みたくなるかと言われたら僕は読みたくはないというだけの話である。

僕がいつも気にして(というと烏滸がましいことこの上ないのだが)いる点は1つで「あなたがどう『感じたか』」ではなく「あなたがどう『考えたか』」ということである。これは同じように見えて実はかなり異なっていると思う訳だ。感じることと考えることには大きな隔たりがある。

感じた言葉というのは正直その時の感情に任せれば捏造だって出来てしまう。言葉は事後性であるから、いつでもどこでも変性させることが可能である。感じたことはつまり言葉で書いてみても、それが本当に感じたことなのかという整合性は持ちえないのである。もしかしたら読んだ後に自分がでっち上げた嘘の感情なのかもしれない。あるいは、皆に興味を持ってもらえるように感情をさらに脚色して感じたこと、感想と称して書いているかもしれないのである。

しかし、考えたことというのは易々と変わるものではない。無論、こうして文章にする中で考えが変化することはあるかもしれないが、その考えの根本にある思考性というものは変え難いのである。その物事、作品を読みそれについて何を考えたかということこそ、そこに個人の特性というかそういったものが明確に現れるのではないだろうか。

何か物事を考えるということは、何かしら自分自身の軸の上に成り立つものであると僕は考えている。その人がこれまでにどんな経験(読書経験も当然のことながら、実生活に於ける経験全てを指す)をしてきたかという蓄積の上に出来上がるものである。そこにこそ個性というものが存在していると僕には思えて仕方がない。何も見え方だけが個性の全てでは決してない。個性を勘違いしている人の原因はここにもどうやらありそうだ。

このように考えると、ある種「書評」も「批評」のような様相を呈してもいいのではないか?あるいは、そもそも「書評」も「批評」の一種なのではないかと思われるのだ。つまりは「批評」というものが「書評」を包含しているということである。これが正解かそうでないかは重要ではない。少なくとも僕にはそう考えられるというだけの話である。

「批評」と聞くととっつきにくい印象がある。勿論、難しい。それはその作品を作者の論理だった思考の元に語られる訳なのだから難しいことこの上ない。しかし、この考え方というか手法?やり方?というものは非常に重要であるべきだと僕には思われて仕方がない。

しかし、「批評」も詰まるところ、ある対象の作品について「批評」を書く人の思考を以てして対象である作品を新しい視点で見せるという点に於いて「書評」と同じなのだ。それは僕にとってはそうだ。「批評」は「書評」を包含していると僕は考えているのだから。つまり、「批評」というものの役割というものは「当たり前だと思われている読み方や考え方を、別の読み方や考え方を導入することで、その当たり前だと思われていることを更に面白いものにさせる」ということなのではないだろうか。

「批評」というと、何か専門的な知識を要して読まなければならないと勘違いされているが、個人的にはそうは思わない。勿論、ある程度の知識や認識はあった方が当然「読み易く」はなる。しかし、それでも分からない事なんて山のようにある。そんなのは読み始めてから自分で調べればいいだけの話であって、それこそが読書の醍醐味なんじゃないのか!?と僕には思えて仕方がないのだが、どうだろう。

つまり、本を読ませる、紹介するっていうことは同時に「批評」するということなのではないのかと僕は考えている。作品を読ませる、誰かの手に取ってもらうということはその作品が一般的に読まれる方法とは異なった方法で読まれる、あるいは読める可能性があるということを示すことに他ならないのではないだろうか。そうすると昨今の「書評」と呼ばれるものは「批評」の一部ではなく、「書評」はただの「感想文」に過ぎない。


だから僕は昨今、「書評」と称して堂々と自分の「感想文」を掲載している輩に腹が立って仕方がない。というよりも、その作品を書いた人に失礼な気がしてならないのである。生半可な「感想文」を書かれた人は溜まったものじゃないだろう。

何かを読んで欲しいとか、紹介するんだったら、例え「感想文」であったとしても少し骨のある「感想文」であることを切に願いたいものである。中途半端に「こういう印象を受けました」「私はこう感じました」と書かれても「ふーん…で?」となるのがオチだ。読書している者なら自分の文章や言葉で魅せて見ろ!と思うのは果たして僕だけだろうか。

僕が偉そうに言えた立場ではないが、柄谷行人がかつてこう言ったことの意味がこれを通して身に染みて、肌感を持って感じることが出来た。

 最後にいいますが、今日の状況において、文学(小説)がかつてもったような役割を果たすことはありえないと思います。ただ、近代文学が終っても、われわれを動かしている資本主義と国家の運動は終らない。それはあらゆる人間的環境を破壊してでも続くでしょう。われわれはその中で対抗して行く必要がある。しかし、その点にかんして、私はもう文学に何も期待していません。

柄谷行人「近代文学の終り」『近代文学の終り』
(インスクリプト 2005年)P.79,80

とにかく、今は本について、ひいては文学というものについて「購買されること」が至上的な意味を持つ。如何に買ってもらえるかということに重きが置かれている。いや、置かれているというと語弊がありそうだ。「置かれてしまっている」ということにしておこう。

何も僕は別に本が購入されるとかそういったことが悪いことを言いたい訳では決してない。何度も言うようだが、それで飯を食っている人間もいる訳なのだから購入されなければ生きていけない。しかし、それを1つの恒久的な目標とし「ただ売れる」ということのみを考え、社会に迎合した作品が氾濫しているように僕には思えて仕方がない。

小説が社会の何かを変え得るという時代は終わった。今では「娯楽」に徹した作品が多く生まれてしまっている。とりわけ、SNSの「書評」で大々的にやっている人が書いている本の殆どは僕にはその資本主義社会に絡めとられた奴隷的な本ばかり紹介しているように思えて仕方がない。「何か社会を変え得る可能性のある本」というのは少なくなったように思う。

この「社会」というのは何も広い意味での「社会」を表している訳ではない。例えば僕と友人、僕と家族などと言った小さなコミュニティもある種の「社会」だとも言える。その中で何かを変え得る作品、変え得る可能性を持った小説に僕は未だ出会ったことがない。最近の小説で。いや、『ハンチバック』は結構衝撃だった。あれは書き方とかは気に喰わなかったけれども、少なくとも僕の障がい者に対する考え方は変化したし、人との接し方もほんの少しだが注意するようになったのは事実である。

芥川賞を取ったとか、直木賞を取ったとか、本屋大賞を取ったとか、そんなことはクソどうでもよくて、良い作品は良い作品なのだ。そんな賞云々なんて関係なく良い作品は良いのだ。これらの賞も結局、現在に置いては資本主義の道具として利用されていることを看取した時に僕はもう何も期待しなくなったことは紛れもない事実ではあるのだが…。


そういえば、金井美恵子が『目白雑録(ひびのあれこれ)』というエッセー集の中で書評についてこんなことを書いていたのだが、そう、僕が偉そうに言えた立場ではないが「これだ!」ということが書かれている。

 以前、蓮實重彦が、書評というのは本の万引きに似ている、と書いていたことがあって、それは「本」の万引きは古来大目に見られて犯罪扱いされないのと同じように、短い書評は批評としての機能を果してはいないのだから批評とは言えない、という程の意味なのだが、ブックオフが近くに出店してから、大量にごっそりと本を万引きするケースが増えて、本の万引きは立派な犯罪だ、と怒る本屋の主人をテレビで見たし、ジャーナリズムには「書評家」という肩書きを持つ書き手もいるし、「書評の名手」と称される書き手も居て、年配の編集者などは、朝日新聞に書評が載ると以前だったら増刷になったものだ、と、どうもその因果関係がわかるようなわからないようなことを言ったりもするし、こちらも書評の原稿は頼まれもするわけだから、誰がどこに書評を書くかということは、そこに属している関係の間では、ちょっとした「問題」であり、作者としては可能なかぎり、小説を読む能力のある書き手に書いてもらいたい、と願うものである。小説を読む能力というのは、もちろんピンからキリまであるし、その能力の質(カヴァーしている教養の幅や広さ、文学観、センス、といろいろな物が含まれている)までは問わないにしても、最低限に要求されるのは、やはり、小説というものを好きかどうかという一点かもしれない、といった、多少高級なことを私は要求しているわけではなくて、小説を読んで批評を書こうとするからには、せめて辞書を引くくらいの手間を厭わない程度の努力が必要ではないか、と言いたいのだ。

金井美恵子「頭の中身」『目白雑録』
(朝日新聞社 2004年)p.12,13

この最終部は本当に僕も声を大にして言いたい。

「小説を読んで批評を書こうとするからには、せめて辞書を引くくらいの手間を厭わない程度の努力が必要ではないか、と言いたいのだ。」

この言葉に僕の言いたかったことが集約されている。今の「書評」と称して書いている人々は、とにかくその「書評」を眼にとめてもらうべく、変な方向へ努力をし続け、その「書評」の質を自ら貶めているという何とも本末転倒な事態が現状なのではないかと思われて仕方がない。

というか、申し訳ないが当たり前のこと過ぎて…。今SNSで「書評」を書いている人たち、とりわけInstagramで見る「#書評」と名付けられる投稿にはこんな当たり前のことすら出来ていない輩が多すぎる気がしてならない。結局、そういう奴らのせいで小説がどんどん商品化していき、詰まらなくなっていくのではないかと僕には思えて仕方がない。

少なくとも、僕はこれを書くにあたって嫌々ながらもInstagramで「#書評」とつくものを検索しまくって色々と読んできたつもりだ。何も思い込みで書くのは良くないのは事実だ。というよりも、これって最低限のマナーというか礼儀なんじゃないかなと思うんですよ。だから、「#書評」というものが本当に自身の感想で終始しているものには辟易として仕方がないのだ。シンプルに礼儀知らずだと思う。



何だか随分と偉そうに書いてしまったが、クリスマス直前に僕はこんなことを感じたという話である。実際僕もクソみたいな「書評」じみたことを書いてしまっていないか心配になった。ただ確実に言えることは、僕はありきたりなことも書いているが「どう考えたのか」ということは常に意識して書いている…はずだ。

読まれる人によってどう感じ取られるかは異なって来る。

ところで、クリスマスなぞという文化も資本主義に絡めとられている訳で、純粋なクリスマスは何処へ行ったのだろうと思い、これからクリーニング屋へ行きスーツを貰ってくるとしよう。

よしなに。


※この記録は2023年12月24日に書かれたものである。なお金井美恵子の引用以下については後日12月26日に加筆したものである。




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