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雑感記録(201)

【深刻な孤独という病】


今日は全く以てくだらない話を延々と書く。

別に隠す必要もないから…というよりも、過去の記録でもわりと書いているのだが、僕はマッチングアプリを利用している。ヘビーユーザーである。これが中々面白くて、手元にスマホがあれば大抵それを開いてしまう。目の前にニンジンを吊られると馬は走るっていう比喩があるでしょう?僕も状況としてはそれなんだ。目の前に女性のプロフィールが吊られてあって、それを見ながら僕は走らされてしまっているんだな。しかも、鼻の孔広げたりしちゃって。

大体、マッチングアプリはの基本的構造はシンプル。至ってシンプルで、プロフィール写真や自己紹介文を見て「いいね!」と思ったら相手に対して「いいね!」を送る。ただそれだけだ。あとは反応待ち。相手からも「いいね!」が帰ってきたら成立。それでここからようやくスタートラインに立てる訳だ。ここからメッセージのやり取りが始まり、あとの裁量は利用者に委ねられる。まあ、どのアプリも大体一緒だ。

それで、読書して一息するタイミングでアプリを開いてジーっと眺める。しかし、見ていると何だか僕は段々と嫌な気分になってくる。何というか、そこに表示されているのは一応、その利用者のパッケージ化されたプロフィールが写真という表紙で以て僕らの眼前に表示される訳だ。凄く奇妙だと思わないかね?言い方は非常に悪いが、奴隷商人でもやっているかのような気分だ。限られた情報で目利きして選ぶなんて、築地、豊洲市場ではあるまいし…。彼女たちは水揚げされたマグロなどではない。人間である。

しかしだ、これはまた当然に逆も然りで、女性側からすると僕のプロフィールも同様にパッケージ化された商品として存在している。つまりは、僕も商品であって、商品であるならば使えないとか、幾ら僕がアピールしようとも「いや、気に食わねえ」となれば廃棄処分になるか安価で売られる訳だ。僕も水揚げされたマグロ状態な訳である。そして僕以外の男性会員も。いやいや、マッチングアプリを使用している人は全員、水揚げされたマグロが水揚げされたマグロを見ている状態である。謂わば「カオス」な空間であることには間違いない。

何だかその状況が居た堪れなくなって、大体5分も眺めればもう限界。すぐに読書で浄化する。


だが、しかし…。またしばらくすると眺めている。

ここが怖い所である。それは簡単な話で、新規入会者がわりと多いので、マッチングアプリという市場は常に潤っているのである。しかも、人気会員の場合はすぐに入札の札が…おっと、「いいね!」の数がすぐに多くなって競争率が上がる。要は無謀な戦いを強いられることになる。そうすると今度は以前ある一定の人気を博していた会員に集中し、今度はそちらの競争率が上がりこれまた難しい……。というようなサイクルをただひたすら繰り返している。……いや、ホントに冗談抜きでマッチングアプリは「競り」なんです…。

まあ、僕もその競りに果敢に挑むんだけれども、そもそものスペックが高くないので初手で大体負けている。だから結局、僕は大きなマグロなど競り落とせた試しがない。こんなところで書く話じゃないんだけれども。だから前のいつだったかの記録に書いたけれども、ちょっと変わった(いや、全然ちょっとどころじゃないんだけれども…)人と遭遇することになる訳だ。

こういう時に、「なんでこんなことしてるんだ」って虚無感が襲ってくることがしばしばだ。だってそうでしょう。こんなことしている時間があるなら読書しろよって話だ。しかし、最近その正体が判明した気がする。もうこれはね、恥ずかしいけど、別にもうどうにでもなれと思って書いているから恥も外聞もない。

孤独が辛い。

ただ、事は単純で、それだけなのである。僕は孤独を紛らわしたくて最近ではマッチングアプリをやっている。以前はテイ良く、「いや、友達が出来ればいいと思ってるんで」と書いた訳だが、もうそんなことはどうでいい。何というのだろうか、毎日の孤独感から抜け出したい。そう思うのである。ただそれだけの話であって、別に大したものではない。


ただね、こう書いてみて思うのは「孤独感」って相当ヤバイ事態だと個人的には思うのね。例えばさ、よくさ「独りで本読んでれば全然、孤独とか感じないから」とか言う人いるじゃない?あれって嘘だと思うの。僕もずっとそう思ってたのね。独りで居ても別に何にも思わないし、何なら独り愉しんじゃってます!みたいな感じだった。だけれども、これには落とし穴があって。それは前提として、身近に会える友達が居るか居ないかで大分違うと思うのね。

東京に越してきて、彼是5ヵ月ぐらいが過ぎようとしている訳だけれども、例えば「連絡すればすぐに会える友達は居るか?」と聞かれたときに僕は声を大にして「0人!」と言うだろう。地元に居た時はそれは当然に会えた友人も今では疎遠になってきているし、東京にすぐに来れるか、あるいは僕が地元にすぐに戻れるかと言われたら土台無理な話である。

何というか、コミュニティが狭小化してしまったんだよね。今までは田舎というある種、まだどこかで交換様式Aがギリギリ成り立っている社会だったから、お互いがお互いに関わりあうっていうのが当然みたいな所もあったから広大なコミュニティ、それは家族単位でも、自治会単位でも、学校単位でも、職場単位でも…あらゆる単位で原初的な交換様式Aがあったからこそ全体としての包括したコミュニティみたいなものがあった気がする。

ところが、これは当然に、社会人にもなって新しくコミュニティを拡張するなど難しい話だ。陽キャ以外は。幸運なことに僕は陽キャではないので、コミュニティを広げることなど敵わず、ただ独り淡々とした毎日を送っている。家に帰れば飯を作り、風呂に入り、洗濯をし、読書をし、そして眠る。誰かと何をするでもなく、ただ機械のように毎日が過ぎ去っていく。

だからという訳ではないが、ある種「家族」というコミュニティは大切なんだなと改めて思う。あれだけ気兼ねなく話せて、困ったときはお互いに助け合って、時たま「ウザイな」とは思うけれども、でも帰る場所があるっていうのは僕としては有難いなと思う訳だ。まだ僕には現段階でそういう場所が残されている分、本当に有難いことなのかもしれない。

そんなことを考えている時にね、たまたま、本当に偶然この動画を見たのだけれども、これがまあ良かった。要は宗教問題から現在の「孤独」という問題について考えるっていう動画なんだけれどもね、これがんまぁぁあ勉強になる。というよりシンプルに面白かった。この動画はぜひ見て欲しい。特に孤独を感じている人は。


恐らくだけれども、僕は孤独を紛らわすため為に、自分が商品化されパッケージ化されることで紛らわしているんだと思う。加えてそこにこういうnoteのようなSNSも相まってややこしくなっているのだと思う。つまりは、結局僕は資本主義の流れに組したくないと言いつつも、自分が商品化することで市場に流されることでしか孤独を癒せないで居るのだ。これはマズイ。非常にマズイ。

僕は今こうしてnoteを書いている。書き終わったらInstagramのストーリーでどうせ「今日、こんなこと書きました」って掲載する。結局僕はこうしてnoteに書くのは自分の生活や思考のパッケージであって、それを評価するのに「いいね!」という貨幣が使用される。その「いいね!」数によりその作品の良し悪しが決まり、そんなくだらぬことに僕は一喜一憂する。「結局殆どの人から評価されないんだ…」という喪失感と共に孤独感を自ら積極的に味わおうと努力してしまっている。馬鹿げている。

こんな自分はクソくらえである。

まあ、そうは言ってもだ。これも何度も書いているからもうしつこいが、書きたくて書いてるのは事実な訳で。評価なんてどうでもいいというのは百も承知だ。しかし、資本主義社会の中でとにかく競争!競争!!競争!!!が小さい頃から刷り込まれてしまっている僕からすれば、どうもその呪縛から逃れられないらしい。どうしたものか…。

やはり、書くことは難しいな。書くことの社会性?とでも言うのだろうか?そういうものをヒシヒシと感じざるを得ない。ただ、これは声を大にして言いたい訳だが、寂しさを紛らわす為に書いている訳では決してない。ただ事後的にそうなってしまうように見えているという事なのだ。非常に腹立たしいことこの上ないんだけれどもね…。


何の話をしていたんだったか忘れたが、まあ、そういうことだ!

よしなに。





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