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雑感記録(249)

【沈黙の狂乱】


土曜日、久々に人と会って、久々に他愛のない話をしたように思う。

その「他愛の無さ」というものを、どこまで「他愛の無い」ことと評定するかによって大きく変わってくるだろう。僕の場合で言えば、文学や哲学から離れて、でも少しその周辺をグルグル駆け巡っているようなことを「他愛の無い」話として標定しているのだと思う。これは僕の過去の記録で何回も登場しているから再び引用するつもりはないけど、「母親のまわりで遊ぶ子供の行き来に似たもの」である。

それで土曜日、本当に久々に人と一緒に酒を飲んだ。僕は大概、酒を飲む時は1人が良い。仕事の帰りに好きな音楽を大音量で掛ける。外界を遮断してお酒を飲みながら沈んでいく、どこか疑似的に堕落しているその瞬間に僕は酔うのが好きである。勿論、気心知れた友人たちと飲む酒も非常に美味だ。それは僕にとって大切な「後へ戻ることで前へ進む」ことが出来る1番の機会である訳だ。この時間も僕にとって非常に有意義な時間である。

今回飲みに行った相手は、最近と言っても昨年アプリで知り合った女性である。彼女とは彼是5回程会っているが、所謂「恋仲」とでもいうのだろうか。そういった所まで発展していない。恐らくだけれども、お互いに何となく「そういう感じにはならない」みたいな、どこか暗黙の了解みたいなものがあるのだと思う。実際に僕も「友達」として向き合っている所があるので、正直そういう眼で見ることが出来ないということもあるだろう。至極曖昧な関係性であるとLINEのやり取りや、実際に会って話す中で思う。

言ってしまえば、僕と彼女は逆のタイプである。しばしば、自分には持っていない物を異性に求める傾向にあるというが、正しくそれかもしれない。しかし、それと「恋仲」になるというのはまた別の問題でもある。一種の羨望みたいなものである。加えて、男女間での友情は成立しないとも言われている。事実どうなのかなとも思う訳だ。僕は有難いことに女性の友人も多いし、大概その殆どの方が既婚者であったり、あるいはお子さんもいる訳で、何を今更「恋仲」などと…というのが正直な所である。

いずれにしろ、僕が土曜日に会って来たその彼女は恐らくだけれども、「恋仲」にはならないのだろうと思い、僕は「友人」として割り切って普段やり取りをしている。


その時に、久々に「他愛の無い」話を延々としていたような気がする。こういう場があることは本当に有難いことだなとやはり思う。僕は過去に「寂しい」だの「孤独」だのと女々しくも書いてしまった訳だが、やはり人間は1人では生きていけないと改めて痛感する。

僕は普段、職場ではあまり話さない。厳密に言えば「必要最低限以外は口にしない」と決めている。何か聞かれたらそれなりに話すし、業務上どうしても必要な会話はしている。話さないことは無いが、別にのべつ幕なしに話す必要もないかなと思っている。そういうお陰もあって、何というか今までと比較すると格段に話をする機会も格段に減少したような気がする。いや、気がするではなくて事実である。

元々、僕は誰かと話をするのは好きだ。

様々な人の話を聞くことは愉しい。それこそ「他愛の無い」話をすることが好きだ。前職は営業だったので話す機会が数多くあった訳だが、大概話は仕事の話ではなくて、そのお客さんの個人的なバックグラウンド、そしてここに至るまでの経緯を聞くことが好きだった。正直、僕は仕事よりも「誰かと話がしたくて」銀行に留まっていたのかもしれないと今では思えてくる。中にはそういう「遠回り」をされるのが嫌だという人も居た。そういう人とはやはりウマが合わなかったように思う。

営業ともなると数多くの人を相手取って様々な話をする。そこには数多くの物語が存在している。皆が皆、同じ道筋を歩んでいる訳ではない。仮に同じ道を歩んでいたとしても、それを皆が皆全く以て同じ気持ちで歩んで来た訳ではないのである。この物語を聞くのが僕には愉しい。だから僕にとってその話を聞けただけで十分で、正直自分の契約が取れたとか取れなかったなんてどうでも良かった。ただ僕はその物語に耳を澄ませる。それだけで幸せな時間だった。

小説を読むことや書物を読むことで得られる物語と、人と会話することから得られる物語はまた別である。まず以て、記述されているいないという問題がある訳だし、特に「音」という要素が入ってくるので余計に耳に残るし、記憶に残る。感情の発露のその瞬間に立ち会える。このワクワクする感じが堪らなく僕には愛おしい時間である。お互いがお互いに対話を重ねて物語を紡いでいく、その場という物語を紡いでいくその瞬間。ここが堪らないのである。

こうして対話を重ねて物語を紡ぐためには、自分自身もその物語を支えるような物語を持っていなければならない。しかし、僕はまだ27歳で人生経験と呼べるようなものはしていない。結婚だったり子育てだったり、僕には経験していないことが山のようにある。僕の物語は所詮小さな世界でのファンシーなメルヘンな世界でしかないのである。だから何をするかというと読書である。対話による物語を更に上へ上へ押し上げる為に僕は読書をしている。

まあ、そんな話は置いておくことにしよう。


いずれにしろ、僕は誰かと話す機会、それも「他愛の無い」話をする機会が東京に来てからと言うものの殆ど無い。自宅に帰れば誰もいない。自分1人だ。誰かと会話する訳でもなければ、ただ単調に生活しているに過ぎない。だが、それでも本を読み続ける。読んでいる時間は愉しい。でも、読んで「それを活かそう」という場が無いことに気づく。それも前以上に。

僕は哲学やら批評や小説の考え方をある種道具のようにして考えることは嫌いなんだが、「使わないと覚えない」ということがあるように、読んでもそれを実践しなければ意味がない。それは使えて初めて自分の物となるのだろう。だから僕はひたすらnoteに書き続けている訳だが、しかしこれだって限界がある訳だ。書くという行為は万能ではない。それを僕はここ最近、ヒシヒシと感じている。

先週ぐらいか。「日本語での世界構築」みたいなことを2日続けて記録を付けた。あれを書いてからと言うものの、自分の中での言語感というかそういうものが少し変化したような気がしている。つまり、「言葉は万能じゃない」ってこと。

だから僕らは「書く」という以外に「読む」そして「対話」と言うものが必要不可欠なんだと思う。僕等は同じ日本語を使って生活しているけれども、同じ言葉1つ取って見てもニュアンスが異なることだって山のようにある訳だ。1番分かりやすい例で言えば、東京あるいは関東圏での「アホ」と大阪あるいは関西圏での「アホ」のニュアンスである。僕等は「アホ」と言われるよりも「バカ」と言われる方が語気が強い印象を受ける。ところが関西圏だと「バカ」よりも「アホ」と言われる方が語気が強いらしい。そういうことだって事実として存在する。

だが、こう書きはしたものの、もしかしたら関東圏に住んでいる人でも「いや、「バカ」と言われるよりも「アホ」と言われる方が嫌だ!」という人も居るだろうし、また逆も然りということもあるだろう。こう考えると地域性云々もあるだろうが、それ以前の問題として個人としての問題もある。どういうニュアンスでその言葉を使用しているのかというのは個人レヴェルで違ってくる。これは至極当たり前のことである。

だが、これを学ぶ為には文字では起こしきれていない部分がその殆どを占めているような気がしてならない。だから僕は過去の記録で「話すように書く」という試みをしたのであるんだなと。もしも「話すように書く」ことが出来れば、読んで貰っている人とのささやかな「対話」が可能だとも思ったのだろう。「対話」というと人と人が会って対面で話をすることを想像しがちだが、僕みたいに人と会うことが滅多にない人にとってそれは困難な話である。

実際、きっかけは柄谷行人と中村雄二郎の対談を読んでと言うものだった訳で、中村雄二郎が「話すように1度書いてみたらスルスル書けるようになった」ということに触発されたものだった。今これをもう1度考えてみるならば、何かを語る、という行為そのものが1人では決してなしえないのだということが分かる。しかし、こう書いてみてこれもまた至極当然のことである。そんな気がしてならない。


僕は今この文章を沈黙の中で書いている。誰とも話さず、横で仕事をしている人々をしり目にただ黙々とこれを書き続けている。静かにただ一言も話さず僕は狂乱している。半ば、古井由吉の『先導獣の話』が想起される。彼は電車の中で叫びたくなる衝動に駆られる訳だが、僕はこの媒体でただぐちゃぐちゃに書くということでそれを実行している。やはり時代だなとも思う。

沈黙の中にも狂乱はある。

いや、むしろ沈黙そのものがきっと狂乱なのだ。

さて、何を書きたかったのやら。

よしなに。


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