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雑感記録(219)

【僕の春は未だ遠く】


先日、古本祭りに行き様々な本を購入した。昨日からちょこちょこ読み始めている。古本祭りの記録に付いては先日の記録を参照されたい。

そんな中で、今日は来週に実家に帰るのでそのお土産を買いに東京スカイツリーに行ってきた。僕は毎回実家に帰る時にお土産を買って帰るのだが、東京駅でいつも済ませている。それはそれで良いのかもしれないが、毎度毎度東京駅でお土産を買うのも味気が無い気がしたので、趣向を凝らして少し遠出をして所謂「ザ・東京」みたいなお土産を選びに行った。

これも過去の記録でも書いた訳だが、遠出をする時僕は行きは電車で向かい、帰りは散歩したいので歩きで帰宅する。だから朝は早めに家を出て、開館と同時に購入し、目的を遂行したら即時帰宅という何だか変なことをしている。

それで朝から電車に揺られて押上まで向かう訳だが、行くまでに時間が掛かるので本を1冊見繕って出掛けた。折角昨日古本祭りで本を購入したのだからそのどれかを読もうと思い1冊バッグに入れて持って行った。それは横光利一『日輪・春は馬車に乗って』である。これに関しては過去の記録で書いた。その時に書いたことは、横光利一が読みたかったけれども東京に本を持ってくるのを忘れたということで代りに近松秋江を読んだという内容のものである。これも以下の記録参照されたし。

それで電車の中で読んでいたんだけれども、やっぱり良いんだよね。横光利一。凄く好きで、電車の中で1人凄い集中して読んでしまった。いつもなら何と言うかフワフワした感じで単純に言葉を追っているという感じなんだけれども、今日は違った。集中して言葉を味わう様な感じだった。外で読書する時は大概こうした「言葉を味わう様な深い読書」が中々出来ない人間なんだけれども、自分でも驚くぐらい集中してしまった。

元々、横光利一が好きだということも当然にあるだろうし、以前から読みたいと思っていた訳なのだから、熱が入るのはまあ当然っちゃ当然のことなのかもしれないなと思う。ところが、だからと言って普段できないようなことがこうして突然出来るということには自分自身でも驚きを隠せないものだ。嬉しいとか嬉しくないとかよりも、驚きが勝ってしまうのである。読書とは不思議な行為であるとつくづく思わされて仕方がない。


今日読んだのは『春は馬車に乗って』という短編だ。僕は横光利一のこの作品が好きである。大学時代に初めて読んでからこの作品が好きである。元々は大学の授業で『機械』を論じることになったことがキッカケである。授業後に大学生協へ向かい、岩波文庫から出ている『日輪・春は馬車に乗って』を購入した。

これは文学を学ぶ者にとっては当然のことだが、『機械』という作品1つだけで作品そのものを語ることは不可能である。例えばその当時の社会背景であったり、あるいはエクリチュールの分析をするということであれば過去の作品まで遡って読まねばならない。この当時、僕は横光利一の作品を沢山読んできた。『横光利一全集』にあたることまではしなかったが、その時々での重要だった作品を読んだつもりである。作品を様々読んでいく中でぶち当たったのがこの『春は馬車に乗って』である。

読んだことがある人は分かるかもしれないが、病気の妻と主人公の生活の話である訳なのだが、これが何と言うかリアリティが結構あって面白い。これも大分過去の記録で触れていたかもしれないが、明治時代からある種の「結核ブーム」みたいな、要は小説の内容に結核になった女性を登場させて、「病気になった女性は美しい」みたいなことを描き出している訳だ。1番顕著な例で言えば徳富蘆花の『不如帰』なんかが正しくそれな訳だが、そういった作品が多い。

中には、僕の大好きな有島武郎の『小さき者へ』というような良い作品もある訳だが、まあ、あれは病気になって亡くなる妻の話と言うよりも、遺されていく子供に宛てた手紙である。有島武郎の所謂自伝的な小説みたいな所もあるから、ある意味でパーソナルな部分での、クローズドな話だから嫌らしさが微塵もない。寧ろ、感動的に読めてしまう。手紙という体裁を取ったことが大きかったのかもしれない。気になる人が居ればぜひ読んでもらいたいものである。

だが、『春は馬車に乗って』は全てが全て女性が美しいものとしては映らない。何なら病気のリアルさということが直截的に表現されている訳で、凄く面白かった。例えばこんな部分がある。

 彼は妻の病勢がすすむにつれて、彼女の寝台の傍からますます離れることが出来なくなった。彼女の口から、啖が一分ごとに出始めた。彼女は自分でそれをとることが出来ない以上、彼がとってやるよりとるものがなかった。また彼女は激しい腹痛を訴え出した。咳の大きな発作が、昼夜を分たず五回ほど突発した。その度に、彼女は自分の胸を引っ掻き廻して苦しんだ。彼は病人とは反対に落ちつかなければならないと考えた。しかし、彼女は、彼が冷静になればなるほど、その苦悶の最中に咳を続けながら彼を罵った。
 「人の苦しんでいるときに、あなたは、あなたは、他のことを考えて。」
 「まア、静まれ、いま呶鳴っちゃ。」
 「あなたが、落ちついているから、憎らしいのよ。」
 「俺が、いま狼狽ては。」
 「やかましい。」
 彼女は彼の持っている紙をひったくると、自分の啖を横なぐりに拭きとって彼に投げつけた。
 彼は片手で彼女の全身から流れ出す汗を所を撰ばず拭きながら、片手で彼女の口から咳出す啖を絶えず拭きとっていなければならなかった。彼の蹲んだ腰はしびれてき来た。彼女は苦しまぎれに、天井を睨んだまま、両手を振って彼の胸を叩き出した。汗を拭きとる彼のタオルが、彼女の寝巻にひっかかった。すると、彼女は、蒲団を蹴りつけ、身体をばたばた波打たせて起き上ろうとした。
 「駄目だ、駄目だ。動いちゃ。」
 「苦しい、苦しい。」
 「落ち着け。」
 「苦しい。」
 「やられるぞ。」
 「うるさい。」
 彼は楯のように打たれながら、彼女のざらざらした胸を撫で擦った。

横光利一「春は馬車に乗って」
『日輪・春は馬車に乗って』(岩波文庫 1981年)
P.105,106

引用が些か長くなって恐縮だが、こういう部分が描かれるのは何だか僕としては新鮮だ。病人が苦しむ様子と看病する人の様子がこうして描かれる。例えば、これは過去にケチョンケチョンにけなしたが、『君の膵臓をたべたい』なんかはこういう病気に罹っている女性が出て来る訳だが、しかし、その闘病の様子は秘匿されている。そもそも病院という施設そのものの構造的な部分も考慮しなければならないのだろうが、しかし、それにしてもその苦しみや苦悩が何だか浅く描かれているのが気に喰わなかった。

僕は自分自身が病気になったことは……あるが、ここまで深刻なものではなかったので、語れることは難しい。しかし、患者が1番苦しいし、看病する側も苦しいということは容易に想像することは出来るだろう。だが、小説と言うものを美しく成立させるために肝心な部分を省くような小説というのは少しずるいなあと僕は常々感じている所だ。だから病気に関連した小説を読むと双方向での描写に僕は注目する。

とはいえ、『春は馬車に乗って』でも結局、主人公の目線で描かれている訳だから限界はある。当人のその苦しみを本当に十分に表現できているかと言われればそこはまた検討しなければならない。だが、読者の想像力を喚起するという点ではレヴェルは高いのではないだろうか。通り一辺倒に「啖で苦しんでいる」と書けば十分なのだろうが、それをこうして状況と描写を書くことで深度は増し、リアルさを帯びて来る。

病気の人を出し、それを綺麗に描くなんて、そもそもおかしな話である。僕が偉そうに言えたことではないが、病気をしているから純愛になる訳ではない。看病している人が高潔で美しい?病気をしている人が高潔で美しい?そんな話など在ってたまるか。第一、愛する人であってもお互いに苦労することだって沢山あるし、双方共に疲弊してしまうことだってあるだろう。その肝心な部分をごっそり抜きにして描き出すこと等、失礼千万なんではないのかと僕は考えてしまう。

だから、安易に病気をテーマにしてその部分を描かないんだとしたら、何と言うか卑怯?いや、配慮が足りていないんじゃないのか、逆にね。僕が偉そうに言えたことではないのだけれども、愛することはそんな清廉潔白なことなのか?実はその中にドロドロとしたお互いの苦しいところを受け入れて、含めて愛なんじゃないかと思う訳だ。綺麗ごとだけでその全てを片付けることが僕には許せない。その最終的な地点として成り立つのが「愛」であるのではないか?美しいばかりが「愛」ではないはずだ。

まあ、『春は馬車に乗って』についてはこんな感じだ。主人公が「死とは何か」ということについて考えだした時から、この話は佳境を迎える訳だが、ここからが非常に素晴らしい。そして何より、話の終り方が綺麗である。「死」という問題について向き合う意味では非常に良い作品である。ぜひ読んで貰いたいものである。

 長らく寒風にさびれ続けた彼の家の中に、初めて早春が匂やかに訪れてきたのである。
 彼は花粉にまみれた手で花束を捧げるように持ちながら、妻の部屋へ這入っていった。
 「とうとう、春がやって来た。」
 「まア、綺麗だわね。」と妻はいうと、頬笑みながら痩せ衰えた手を花の方へ差し出した。
 「これは実に綺麗じゃないか。」
 「どこから来たの。」
 「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を撒き撒きやって来たのさ。」
 妻は彼から花束を受けとると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。

横光利一「春は馬車に乗って」
『日輪・春は馬車に乗って』(岩波文庫 1981年)
P.115,116

好きすぎて思わず引用してしまった。何だこの書き出しは!素晴らしすぎる…。

実はこの短編の後に、『花園の思想』という作品がある。これも同じ系統の作品である。というよりもだ、この一連の作品は実際の横光利一の体験に基づく話である訳で。キミさんという奥さんの話である。この内容が描かれた作品としては『春は馬車に乗って』は勿論のこと、『花園の思想』『妻』『慄える薔薇』『蛾はどこにでもいる』などがある。どれも読んだが、やはり僕は『春は馬車に乗って』が個人的には1番好きである。最後の部分が決め手なような気がする。


人間と言うのは生まれてから死に向かって生きる。それまでにどう生きるかと言うことは分からない。人生のどこかで挫折を経験することもあるだろうし、山あり谷ありでジェットコースターのような人生を送ることだってある。良い人に出会い、結婚して、子供も出来て。毎日が幸せな生活を送る人たちだっている。ただ、それがどういう道筋を辿るかは置いておくとしても僕等は死に向かって生きることしか出来ない。

「愛すること」というのは一体どういうことなのだろうか。

それを考える1つのキッカケとしても良い作品であると僕は感じている。何が「愛」なのか。綺麗な事だけが「愛」なのか。フロムの『愛するということ』を読みたくなった。

僕の春はいつ頃来るのだろうか。

よしなに。



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