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雑感記録(262)

【父と飲む、その他断章】


今日から一応、GWというものが始まる訳だ。間に3日間の平日を挟むわけだが、上手くすればかなりの大型連休が取得できるだろう。僕にはそんな覚悟もない訳だ。それに休みすぎると生活リズムが狂ってしまうので、何だかそれも良くないなと思っている。だが、休める時には思い切り休みたいという気持ちもある。人間とはかくも不自由な生き物なのかと思い知らされる瞬間である。何度も書いて恐縮だが、人間そう簡単に堕落できないというのは些か辛いものである。

そんな話はさておき、先日父親が東京に出張ということで久々にお店で一緒に酒を酌み交わした。

すぐに電車で帰れるようにと新宿駅東口に面した居酒屋に行った。金曜日の新宿駅は混雑するかと思っていたが、休日に比べれば大したことがないなと思ってしまった。しかし、父親からするとそもそも東京は人が多く、やっていられない場所だという認識だ。住んでいる人間とたまに来る人間との間の認識の違いというやつだ。だが僕もまだ東京に来て1年も経っていない訳で…。


それで父親と色々と話した訳だが、一定の距離を置いていると中々面白い話というか、込み入った話も気兼ねなく出来るのが面白かった。僕も28歳になる歳で、それなりに考え方も大人になった訳だ。自分自身も成長したなと感じた。

話していて、やはり父親と僕は考え方が凄く似ているなと改めて思った。自分で言うのも変な話だが、本当に僕が2人いる感覚になる。強いて言えば父親の方が僕よりも短気だ。まだ僕の方が堪え性がある。それは先日話をしていて感じたところだ。自分の中でそれが何だかおかしくて堪らなかった。親子とは言え、ここまで似るもんなのかねと。

「あと、俺も3年だ。」

こんな話から始まった。父親は今年で58歳になる。定年まであと3年な訳だ。それを言われた時に、何だか不思議な感覚になった。父親ももう60歳になるんだなと…。物凄く変な感じだ。奇妙な言い方をするが、親という生き物も歳を取るんだなという感覚である。上手い言葉が見つからない訳だが、感慨深いというものとも違うし、悲哀というものとも違うし…。とにかく僕の中で違和感でしかなかった。

元々、僕は父親っ子とでも言えばいいのか。母親よりも父親にべったりしていた印象が強い。小さい頃も母親よりも、父親と一緒に出掛けた印象が強い。いや…厳密には滅茶苦茶に怒られた記憶が多い。母親は所謂、典型的な女性のヒステリックな怒りを僕等にぶつけてきていたけど、父親はとにかく理路整然とした感じで怒鳴っていた印象だ。感情的ではなくて、その怒りにも列記とした筋が通っている。だから怒られても毎回納得出来ていた自分が居たことも事実である。

それが1つの原因とは思わないけれども、父親とはこうして大人になっても仲良く過ごせているのだと思う。それに先にも書いたが、やはり僕と父親は考え方が物凄く似ている。人に対する考え方とか、物事の考え方とか、そういったものが似ている。だから楽なのかもしれない。この歳になっても父親と一緒にこうして居られるというのはそういうことなのだと思う。面白いなあと改めて思う。

「結婚したいとか思うか?」

と突然聞かれた。先日の記録でも書いたが、僕の兄貴に子どもが生まれた訳で、そういったこともあって聞いてきたのだと思う。

僕は「いや、彼女すらいないけどね」という所から話をした。そして僕は正直に答えた。「結婚したいとは思うね」とだけ言った。「子どもは?」と聞かれたのでこれも正直に答えた。「東京で暮らし続けることを考えたら積極的に作りたいかと言われたら…ないな…。東京という地で育てる自信がない」と答えた。

大概、こういう話を親とすると「結婚はいいぞ」とか「子どもは作った方が良い」と説教じみたことを言う。現に母親にはそういうように実家に戻る度に言われ続けている。父親はあまりそういうことを言わないから、何て返して来るのか少し期待している部分もあった。母親と同じことをこの人は言うのかなと思っていた。だが、先にも書いたが父親と僕はよく似ている。

「別にお前の好きなようにすればいいんじゃない。したきゃすればいいと思うし、したくなければしなきゃいい。それだけのことさ。」

多分だけれども、家族の中で唯一「家族という他人」という視点を持っているのは父親だと思う。僕という1人の存在として見てくれているのは父親なのだろうと思う。だからこうして大人になっても一緒に出掛けるのが苦では全く以てないし、家族という組織の中に居ながらも常に建設的な話が出来る関係性であったのだと思われる。そして最後に父親はこう付け加えた。

「ただね、1つ確実に言えることはある。子どもが出来て初めて親の気持ちというか…。何だろうな…。今まで親という存在が自分自身にしてくれたことの偉大さがよく分かる。こう…話していて、頭では分かっても、肌感を持ってやってくるのとは全く違う。それは子どもが居て良かったなと思う。」

なるほど。それは難しい問題だ。確かに人間というのは「頭で分かる」ということと「経験で分かる」、あるいは様々な方法を以てして物事を理解し把握する生き物である訳だ。所謂、中身を伴わないということなのかもしれない。やはり、頭の中で考えるだけでは限界がある。自分自身という存在をそこに没入させる必要がある。僕もどちらかというと経験知を大事にしたいタイプだから少し悶々としてしまったのは事実だが、何だかそれ以上に歯痒い言葉だった。


まあ、そんなこんなで2時間ぐらい色々と話し込んで、様々な苦労話やら愚痴やらを言い合って終わった。しかし、久々に気持ちよく飲めたはずなのに全然酔えなかった。いつも以上に飲酒していたはずなのだが、どうも酔えなかった。父親を改札まで見送り、僕は新宿駅から神楽坂まで歩いて帰ることにした。

道中、僕はコンビニに立ち寄りビールのロング缶を購入して飲みながら帰った。

夜の東京はどこを歩いていても明るい。そして騒がしい。金曜日の夜ということもあるのだろうが、それにしても明るい。明るすぎる。多くの人とすれ違う。しかし、彼らは無関心だ。どこへ向かうのかも分からずただ歩く。手元の小さなデバイスの「世界」を眺めながら歩く。それこそ本当にどこに向かっているのか分からない。ゾンビみたいな連中しかいない。何度も書くようだが、彼らの「世界」はスマホにしか存在しないのだろうか。

僕のヘッドフォンからは大音量で音楽が流れる。僕は東京の街を歩くときは大音量で音楽を聞く。それは単純な話で、自己の世界に没頭したいからだ。それならスマホを見つめながら歩く人と同じではないかと言われかねないが、僕は前を向いている。精神的には後退しながらも、僕は物理的に前進している。僕はただ自分自身と向き合いながら黙々と歩く。流れる音楽の言葉に精神を預け、僕の足は前進する。

ハナレグミがカバーした大沢誉志幸の『そして僕は途方に暮れる』が流れる。原曲も好きだが、ハナレグミのカバーも染み入るものがある。そして僕はこの曲を聞くといつも励まされる。

君の選んだことだから
きっと大丈夫さ
君が心に決めたことだから
そして僕は途方に暮れる

大沢誉志幸『そして僕は途方に暮れる』(1993年)

この曲自体は、別れる女性に向けての曲だ。これは僕の勝手な想像に過ぎないのだけれども、きっと同棲しているカップルが居る。だけど女性側の方が愛想を尽かせてか、あるいは何某かの困難があり、別れて同棲している部屋を出て行った後のことを歌った曲なのではないかと想像する。これも恐らくだが、引用部分は出て行った女性を送り出すための言葉である訳で、だけれども拭いきれない未練的な物があるような気がする。

そうして、僕は勝手に「この曲の対極にあるのが、沢田研二の『勝手にしやがれ』なんだよな」と思ってしまった。

バーボンのボトルを抱いて
夜ふけの窓に立つ
お前がふらふら行くのが見える
さよならというのもなぜか
しらけた感じだし
あばよとサラリと送ってみるか

沢田研二『勝手にしやがれ』(1977年)

感覚としては沢田研二の方が若い気がする。「なんだこのくそ!」みたいな気持ちが少なくとも感じられる。1番の歌詞で「カッコつけさせてくれよ」と歌っている時点で幾分かダサい。だが、気持ちは分からないでもないというのが僕個人の正直に思う所である。何だろうな、同じような事柄を歌っていても思慮深さというのは異なるのがまた面白いなとも思う訳だ。それに沢田研二の方が若干のコミカルさがある。大沢誉志幸の方が深刻さを感じる。


僕はしばしばいい曲に出会うと「ポエジーを感じる」と表現してしまうことがある。それは言ってしまえば「情緒のあるなし」ということなのだろうとも思ってみたりする。自分で書いておいて何とも無責任な物言いな訳だが。よろしくないな…。

とここまで書いて、僕は萩原朔太郎『月に吠えろ』の序がふと思い出される。

 『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい?』といふ問いに対しては何人もたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

萩原朔太郎「月に吠えろ」『萩原朔太郎詩集』
(岩波文庫 1952年)P.67

なるほど…。確かに両者の歌とも「どういふわけで」悲しいかというよりも「どういふ工合」で悲しいかが書かれる。しかも、言ってしまえば「極めて普遍性のもの」であるし、「極めて個性的な特異なもの」であることは事実である。

僕は音楽を聞く際には割と歌詞を中心に聞くことが多い。ヒップホップに傾倒したのにもそういう理由がある。あれも言ってしまえば「極めて個性的な特異なもの」である。それは自身の経験や過去の出来事をリリックにする訳なのだから。そう考えるとやはりヒップホップは純粋な意味で詩なのではないかとも思い始めてきている。

昨今はリズムとかそういったものが先行して、歌詞は別に何を言っているか分からなくてもいい的な傾向があるように思う。それについては過去に記録を残したのでそれを読んで欲しい。

昔の曲を求めてしまうという傾向は僕はここにあるのではないかと思う。これはあくまで個人的な経験に過ぎないのだけれども。そんなことを考えてみてしまうのである。


僕は夜の新宿を闊歩した。そうして家に着き、泥のように眠った。

GWは帰省して久々に自然を感じてこようと思う。

よしなに。

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