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雑感記録(65)

【言葉に戸惑った瞬間】


最近、大学時代の親友からオススメされてAbemaTVをダウンロードした。僕は普段からNetflixとAmazon Prime、YouTubeを中心に利用しているから、サブスクはもういいかなと思っていたのだけれども、やんごとなき事情によりダウンロードした。それは僕の好きなヒップホップクルーのKANDYTOWNのビルボードライブが生配信されていたからである。友人に「配信されているから見ろ!」と言われて勢いで登録し、ギリギリのところでリアルタイム視聴できた。友人には感謝するばかりだ。

元々はKANDYTOWNのうちの1人のKEIJUが好きであり、KEIJUの曲をひたすら聞いていたのである。そこから派生して彼の所属しているKANDYTOWNの曲も聞くようになったのである。どちらを先に聞き出したかは今となっては定かではないが、確かKEIJUが先であったような気がする。まあ、どちらでも関係ないか。

しかし、何度聞いても染みるものがある。これをどう表現したらいいのか分からないのだけれども…。声が僕には耳心地が良くて、歌詞の言葉だったりも自分の琴線に響くというか…。とここまで言葉にしてみて、やはり僕の言葉は陳腐だなと自身でさえ感じてしまうのである。前の記録でも度々書いてはいるのだけれども、やはり言葉で良さなり感情なりを表現するのは非常に難しい。

ともあれ、聞いてもらうのが1番だとも思うのでリンクを貼っておきますので、よければ聞いてみて欲しい。


僕は「自分にとって良いもの」「自分の好きなもの」「自分が感動したもの」を言語化することが実は苦手である。何と言えばいいのか、その時の情動に任せて、わりと言葉ではなくて「良いんだよ!これが!」と何とも雑な表現をしてしまうのである。

こういう時、形容詞なるものについて考えてしまうのである。僕は形容詞にどうも馴染めないというか、もどかしさを感じてしまうことがある。形容詞はある意味で概念をサクサクっと簡単に表現するような感じがして、言語の喪失感を時たま感じてしまうのである。もちろん形容詞だけとも限らないのだが、兎にも角にもその内実性のなさにガッカリし、自己嫌悪に陥ることがしばしばあるのだ。

例えば「この本面白くて好きなんだよ」と言ってしまうとき、僕らはそれを「ああ、その本は面白いんだな」と完結しようとしてしまえば簡単に出来てしまうのである。「面白い」と言えばそれは「面白い」と受け取られるが、実は紐解いて聞いてみると、「……どこが?」となることもしばしばあるのではないだろうか。要は人によって様々な「面白さ」があり、それが「面白い」という言葉で全ての「面白さ」を包括出来る訳では決してないのではないのだろうか。

仮に僕が「いやね、この本面白いんだよ」と誰かに伝えた時に「その面白いって何なの?」はたまた「お前の言う面白さってなんだ?」って聞かれると多分、いや確実に言葉に窮してしまうことは間違いない。そういう自分の姿がまざまざと目の前に映し出される。それは僕自身が形容詞に頼りっぱなしであり、自身の言葉で考えることを怠ってきた証拠でもあるのだろう。そもそも「自身の言葉」などというものが存在すること自体が怪しいのだが、いずれにしろ自分で考え得る範囲での言語を利用して伝える自信が僕にはない。

他にも「可愛い」とか「美しい」とか挙げればキリはないのだろうが、こういった形容詞は簡単に使用して表現できてしまう分、そこに含蓄される密度みたいなものがどこか置き去りになってしまっているような気がしてならない。ある意味でラカンの言うことがここでまざまざと見せつけられる訳だ。つまり、シニフィアン(記号)とシニフィエ(意味)は元来独立しているものであり、我々はその癒着によって言葉そのものを理解しているということである。


ひと昔前、と言っても最近のことではあったと思うが、タピオカジュース?タピオカミルクティー?が一時期流行ったことがあった。それが流行った時にInstagramで若い女性たちがこぞってタピオカと自分自身の姿を一緒に映して投稿するという行為があった。

その時、僕は常々思っていたのだが「これは、『タピオカ』という存在が「可愛くて」共有したいのか、『タピオカを味わっている私』が「可愛くて」共有したいのか、はたまた『タピオカ』が「美味しい」から共有したいのか…一体なんなんだ?」と。これは僕には未だに理解しがたいなあと感じている。今では大分そういったことをする人は減ったが、何か食事と「私」を必ずセットで映して投稿する人は未だに存在している。

僕もInstagramを利用しているが、僕は通常の投稿に関して人の写真を掲載することはしない。自身が単純に「面白い」と感じたそのものを写真として収めているに過ぎない。あと、自分と本を一緒に映したものを投稿したいとも思わないというのが1番大きいのかもしれないのだが…。まあ、それは置いておくことにしよう。

恐らくだけれども、対象物(例示で言えばタピオカ)そのものの良さ(これが「美味しい」とか「可愛い」とか何でもいい)を伝えるのであればそもそも「私」という存在は不在でも構わないのではないだろうかとも僕は思っているのである。それこそ言葉で表現すればいい訳なのだ。キャプションを利用して言葉を使ってその良さや可愛さを伝えることは出来るだろう。

とは言うものの、僕自身が言語で良さを表現することが困難であると感じている訳である。そこで僕ははたと気付いた。対象物そのものの良さを伝えるために言葉が足りない、伝えることが困難であることから「私」という感じる主体を導入することによって言葉で補えない部分を補完している、はたまた言葉ではなく「私」という存在そのものによって良さを伝えているのではないのだろうか?と。思いきって舵をきってみることにした。


この「私」という存在があることで、パーソナルな良さを表現することが可能なのではないだろうか?要は言葉で良さを表現しようとすれば言わば、紋切型の形容詞によって表現せざるを得ないものであっても、そこに「私」という存在を、いやある意味で「私」という存在言語を同時に合わせることによって表現しようとしているのではないだろうか。

つまり、個々の形容詞のシニフィエを「私」という存在のシニフィエによって形容詞のシニフィアンを補っているとうことになるのではないのだろうかと僕は想定している。

こう考えてみると我々が如何に言葉に振り回されているかがよく分かる(ような気もする)。形容詞だけに限らずだけれども、僕らは言葉というものを絶対視している傾向にあるように思われて仕方がない。

小説でも映画なんかではこれが非常に顕著に表れているのではないだろうか?それは「空のパロール」の飛び交う空間に見せかけて、実は「充溢したパロール」で満たされた空間であるというものが小説や映画そのものではないだろうか。

ここで注を入れておく。「空のパロール」とは僕らが普段話している他愛のない話を想定して貰えれば問題ない。要はあまり意味のない会話とでも表現しておく。そして「充溢したパロール」というのは誰かに発せられた言葉により行動を制限されてしまう言葉である。例えば結婚式に於いて「汝このものを妻として迎えますか?」という言葉によって新郎はどんな状況下であってもその者の夫として決定されるのである。つまり、それ以外の選択肢はなく「そうせざるを得ない」ということであると想定して貰えればよい。

映画や小説に於いては作中の中で人物同士が会話をする場面があるのだが、一見すると「空のパロール」であるのだけれども、映画あるいは小説という場で行われていることにより、それが物語そして作中人物に影響を与えてしまうという「充溢したパロール」の空間になってしまうのである。

つまり、この「充溢したパロール」の空間ではその発せられる言葉1つ1つにが何かしらの意味を持ってしまうのである。これはある意味で言語に支配された世界であることは言うまでもないのである。しかし、現実には「空のパロール」も存在する訳であり、何にも意味のない(というと語弊があるかもしれないが…)言葉による空間も存在する。

いずれにせよ、映画や小説が「充溢したパロール」の空間として顕著であるという例であり、僕らの生活でも十分に「充溢したパロール」の空間は存在している。これだけは注意を付しておきたい。


さて、ここまで非常にとりとめのないような形で書いてきた訳なのだが、要するに僕がここで言いたいこととは「言葉って難しい」ということ、そして「言葉が絶対などとは言えない」ということである。

今回は自分が好きなものの良さなどを上手に言語化出来ないというところから、恣意的に形容詞に着目した訳なのだが、それ以外にも引っ掛かることはよくある。

しかし、それでも言語化することが絶対ではないということも自身で感じていて、以前の記録で保坂和志を引用したのだけれども、今回も最後にそれを引用して締めたいと思う。

あるいはまた、宇宙なり、自然なり、世界なりは、言語に先立つ。それらは言語に先立つのだから、言語によってすべてが記述可能であるという根拠は、言語の側にはいない。人間もまた言語に先立つ。人間の思考は言語によって人間らしく完成されるけど、人間は絶えず言語化しきれないものを知覚している。雲の形も風に揺れる木の形も厳密にはどれ一つとして同じものはなく、それらの一つ一つを人間は言語によって再現することはできない。しかし知覚することはできている。すべてを知覚しているのではないにしても、少なくとも言語によって再現できる範囲以上には知覚できている。(中略)私はただ「言語によって再現できる以上に知覚できないと信じているあなたは貧しい人だ。あなたはあなた自身が持っている言語観を神経症的に守るために、自分が知覚しているものに対して知らないふりをしている」としか言うことができないけれど、そんな人と関わっている時間があったら、私には雲の形を見ている方がなにがしか利益があるだろう。少なくともその時間だけ私は、言語がすべてを記述できるという思い込みが誤りであることを確認することができるからだ。
「リアリティ」とはそのような言語と世界との関係を知る人間の内面のプロセスに起源をもつはずだ。

保坂和志「「リアリティ」とそれに先立つもの」『世界を肯定する哲学』
(ちくま学芸新書2001年)P.98~99

言語による表現が全てではないとは僕も思うが、それでも言葉で表現することを怠りたくないと思うし、言葉そのものについて深く考えてみる必要があると僕は感じている。そのためのラカンやフロイトであると僕は感じ、日夜勉強に励んでいる。それの出来か不出来かは置いておくとしてもだ。

1人で黙々と言葉と向き合ってみたいと考えている。今年のテーマは「言葉について探求する」に決めようと思う。

よしなに。


※引用した記事はこちら↓↓↓








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