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小原先生 その1 ~当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 小学校3~4年生の時の担任小原先生の思い出です。

 当時私は学校の授業は授業中でこなせていて、宿題も殆ど自宅ではやらず、学校の授業中に内職でやる生活をしていました。先生は毎日自宅で30分自習するという「30分間学習」という仕組みを導入されていました。しかし私は学習記録を適当に書いてやったことにしていました。それでもテストはいっも90点は切らなかったのでなんとかなっていました。
 空いた時間は、放課後は背伸びして当時大学生が活発にしていた学生運動の影響を受けて学級委員の仕事をしていました。また、ラジオを作ったり電子工作が好きだったので放送部の仕事も楽しんでいました。
 自宅に帰ってからは、「30分間学習」をせず、高校生活が主題の青春ドラマを見て、スポーツや学生運動などを疑似体験していました。NHKの教育テレビも大好きで、テレビジョン技術、市民大学講座、高校講座、中学生講座、セサミストリート等を楽しんでいました。
 雑誌書籍では、王道の学研の科学と学習を付録を鑑みて買っていました。特に上級学年向けのものを買って楽しんでいました。科学的な付録だけでなく漢字の成立ちの辞書、四文字熟語などの文系の付録も楽しんでいました。
 百科事典や学習まんが、誠文堂新光社さんの子供の科学や初歩のラジオなども興味の赴くままに楽しんでいました。お金を貯めて鉱石ラジオ(ゲルマラジオ)から始まって本格的な大出力オーディオアンプを作ったりもしていました。今思えば、知的レベルは違いますが、スタイルとしては大学での学究生活に近いとても楽しい時間でした。
 
 こんな知的好奇心に小原先生の授業は火を着けます。

 教科書は各学期の始めのみであまり使いませんでした。

 例えば国語は原稿用紙が配られ、ひたすら作文や感想文を書く授業が続きました。先生はあまり介入せず、自分で全て考えることを大事にされていました。文章を書くことで上述の生活で得た雑駁(ざっぱく)な知識が整理されて頭に定着していきました。提出したレポート·作文は必ず丁寧なコメントが付いて戻されました。
 社会も3年生時は住んでいた区の白地図が配られ、ひたすらそこに調査結果を表現するというスタイルでした。区の地形から始まって、個人やグループで農業、酪農、工業、商業等の産業分布、公共施設の設置状況、治水、道路整備なとの分析研究等を表現し発表しました。
 4年生では区から日本地図に変わりましたが、やることは同じで、ひたすら白地図を使って調査·研究をするという授業でした。

 これが、自分自身の生き方のスタイルに完全にハマって公私共に大学での学究生活に近いとても楽しい時間を過ごせました。

 しかしこの楽しい生活も長くは続きませんでした。このあと、小学校5年生のゴールデンウイークに受けた難関中学受験専門の四谷大塚という予備校の補欠選抜試験に合格し、生活スタイルが大きく変わるという未来が待っていました。そして大学生になるまでこの自由で素敵な生活には戻れませんでした。


 


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