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at home

久ぶりにログインしてみた。ログインパスワードは他のクレジットカードの暗証番号やらとまとめてメモしておいた紙切れに書いておいたが、それはモロッコではいつも貴重品袋に入れてしまっておいたものだ。

今思うと不用心だったかもしれないが、もしも携帯を盗まれたり壊してしまったりと考えた時にデータでなく紙に書いておいたら安全だろうと思った。何より、誤った操作でデータを削除しかねないと妙に慎重な考えが浮かんだ私は紙に残したが故のリスクはそこまで気にしていなかった。

幸いこの紙自体は紛失も損失も免れ、約2年と半年を経て無事に帰国した今も手元にあり無事にログインできたという流れ。

下書きに残っていた記事には「マラケシュの魔」というタイトルのみ。確かにあの世界観だけは独特で今もトラウマの如く脳に居座っている感覚がある。日本的に言うと”念”というようなものだろうか。家の中の壁の隅の方の身長よりもやや高い位置に薄黒い煙が巻いているようなイメージと、恍惚と漂う香りがあたりにたちこめる。掴んでも直ぐに霞んでしまったその魅惑の香りは風に乗ってまたどこかへ飛んで行ってしまった。


同居人が言った。「今日は一年で最も黒魔術が効きやすい日だよ」

その日いつものように屋上で洗濯物を取り込んでいたら、どこからともなくとてつもなく良い香りが漂ってきた。もう一度その”良い香り”を確かめようともうひと嗅ぎしたら既に消えてしまっていた。慌ててその場で360度、屋上を行ったり来たりしてもだめ。仕方なく諦めたが、その香りの一つ一つは覚えのある香料でも調合バランス、つまり調香師の腕ということだろうかこれまで嗅いだことのない絶妙なものだった。

下の階にいるモロッコ人の同居人に話すと、あぁ近所の誰かが黒魔術をかけているとのこと。この日はイスラム教の行事の数日前で、聞けば行事当日の前後1週間程は魔術の効果が高まるとのことだった。白魔術も効果を発揮するそうだが、圧倒的に黒魔術をかける人(特に女性)が多いと言う。近所のおばさま方はせっせと香料を焚いて各々魔術に勤しんでいるというから東西南北その”良い香り”が漂ってきても不思議ではなかった。一体おばさまはどこの調香師(呪術師またはハーバリスト、スパイス屋)から購入したのか、もしくはオリジナルレシピか。

全てが良い香りかどうかはさておき、あの日あの夕暮れの屋上で香りをキャッチしてしまった私には生々しい記憶として刻まれてしまったのだ。悪魔は良い香りがするとも話していたが、それは良い香りで人を惑わすということだろうか。反対に悪魔が巣食らうところはとてつもなく強烈な腐敗臭が漂うとも言うが。後者は帰国後何本が観たホラー映画の憑依系ジャンルでも語られており、また記憶が蘇ったりもした。上品と下品は紙一重かもしれない、と知ったような言葉でとりあえず蓋をしておく。

そんなこんなで消化しきれていない体験をもう既に薄れかけている記憶と、途切れ途切れの日記を頼りに記しておこうと思う。部分を残していけばいずれ全体に繋がると信じて。

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