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著者が語る:『哲学ディベート』<光市母子殺害事件>!

『哲学ディベート』は、最初に大学生が特定のテーマに関わる時事問題を提起して、それに対する賛成論と反対論の多彩な論点を5人の大学生がディスカッションし、その哲学的意味を教授が解説するという形式になっている。本書の目的は、読者が臨場感を味わいながらディスカッションに一緒に参加して、自分自身の見解を自由自在に考え抜くことにある。

その「第3章:人権」の「終身刑」に対する「文学部A」の問題提起は、次のようになっている(pp. 186-190)。

 さきほども否定側意見を述べましたが、私は死刑制度に反対の立場です。つまり、死刑制度を廃止すべきだと考えているのですが、かといって、仮に死刑が廃止された場合、現在の日本の「無期懲役」が最高刑になることにも批判が多いので、その点を調べてみました。
 日本の懲役刑には「有期懲役」と「無期懲役」があって、有期懲役には「満期」と呼ばれる期限がありますが、無期懲役には「満期」がありません。たとえば、懲役一五年の有期刑の受刑者は、一五年後には確実に刑期を終了して社会に復帰することができますが、無期懲役の受刑者は、そのような意味で刑期を終了することはなく、特別な恩赦がない限り、刑期は一生継続するものとみなされます。
 ただし、有期刑にしても無期刑にしても、「改悛の状」が認められた受刑者に対しては、刑期満了前であっても「仮釈放」が許されることになっています。仮釈放中の受刑者は、「保護観察」を受けなければならず、選挙権も剥奪され、行動の自由も制限されます。有期刑の受刑者は刑期満了まで、無期刑の受刑者はこの状態が生涯続くことになるわけですが、少なくとも日常生活の上では、一般の人々と何ら変わりなく生活することができます。
 現在の日本の『刑法』によれば、有期刑の場合は刑期の三分の一、無期刑の場合は一〇年以上服役すれば、仮釈放が可能になります(第二八条)。さらに、『少年法』では、二〇歳未満で無期刑の言い渡しを受けた者は、七年を経過すれば、仮釈放が可能性になります(第五八条)。
 しかし、実際に、無期懲役の受刑者に仮釈放が認められた期間ですが、一五年以下というのは非常に稀で、平均在所期間は一七年程度と言われています。ただし、『少年法』による無期懲役の場合は、更正の可能性も考慮して、一〇年経たずに仮釈放が認められるケースもあるようです。
 いずれにしても、「無期懲役」といっても、現実には二〇年以上経てば出所できる可能性が高くなるため、死刑と対比した場合、これでは甘すぎるのではないかというのが、最も大きな問題となっています。仮に無期懲役の判決を受けても一〇年以内に出所できると認識した上で、故意に凶悪犯罪に及んだと思われる未成年者のケースもあります。
 その近年の一例が、一九九九年四月一四日午後二時頃、山口県光市のアパートの本村洋氏宅に、当時一八歳のF被告が押し入った事件です。水道工事会社に勤めるF被告は、当日会社を欠勤し、排水検査の作業員を装って、紐や布テープを持参して本村氏宅を訪れました。そして、居間にいた当時二三歳の本村氏の妻を強姦しようとして背後から抱きつき、彼女が悲鳴を上げ手足をばたつかせて暴れて抵抗したため、馬乗りになって頚部を両手で強く絞めて殺害、万一蘇生した場合に備えて、彼女の両手を紐で縛り、口に布テープを貼った上で強姦しました。
 その後、被害者にすがりついて泣いていた生後一一ヶ月の幼女を持ち上げて床にたたきつけ、なおも泣いて母親の側に寄ろうとする幼女の頚部を紐で絞めて窒息させ、二人の死体を押入に隠しました。さらにF被告は、被害者の財布を盗んで逃げ、四日後に逮捕されました。
 二〇〇〇年三月二二日、検察の死刑の求刑に対して、山口地方裁判所は、F被告に無期懲役の判決を下しました。その理由として、犯行当時のF被告が一八歳一ヶ月で未熟だったこと、前科がないこと、中学時代に被告の母親が自殺したことなど家庭環境に不遇な面があったこと、矯正教育が可能だと判断したことが挙げられています。
 ところが、この判決が出た直後、F被告が知人に出した手紙があります。その中で、F被告は、犯行について「犬がある日かわいい犬と出会った。……そのまま『やっちゃった』……これは罪でしょうか」と書き、判決に対しては、「私を裁けるものはこの世におらず……終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」などと書いています。さらに、「無期はほぼキマリ、七年そこそこに地上に芽を出す」と、事前に少年法の無期懲役の仮釈放期間を知った上で犯行に及んだと思われる内容もありました。
 検察側は、この手紙を新たな証拠として採用し、控訴しました。二〇〇二年三月一四日、広島高等裁判所は、「被告人を極刑に処することの当否を慎重に検討すべき事案」と認めつつも、「被告人を無期懲役に処した原判決の量刑が軽過ぎて不当であるとはいえない」として控訴を棄却しました。検察庁は、この判決を不服として最高裁判所に上告。二〇〇六年六月二〇日、最高裁判所は、原判決を破棄し、差し戻し審が行われることになり、二〇〇七年時点で裁判は継続しています。
 この事件で、最愛の妻と娘を奪われた夫の本村氏は、テレビの生放送番組に出演し、「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺します」と、怒りに奮えて泣きながら話していました。私もこの番組を見ながら、悔しくて一緒に泣いてしまいました。
 その時に本村氏が何よりも求めていたのが、F被告が自分の犯した罪の重さを認識し、心から反省して悔い改め、真に更正して生まれ変わってほしいということで、この点は私もまったく同じ意見です。ところが、本村氏が続けて述べたのは、そのように真摯に自分と向き合ってF被告が生まれ変わったら、その上で、あくまで死刑を執行して、F被告の命を奪い取るべきだという厳しい言葉でした。
 本村氏は、そうすることによってしか、F被告が、本当の意味で自分の犯した非人間的な凶行の残酷さを理解できないと言われました。しかし、この点についてだけは、私は賛成できません。もしF被告が真に更正して生まれ変わったとしたら、死刑を執行する意味はどこにあるのでしょうか?
 本村氏と奥さんは、大学時代に学生結婚し、二人とも二三歳と、私たちとほとんど同年齢でした。本村氏は就職したばかりで、もうすぐ一歳になる娘さんと一緒に新婚家庭を築き、社会人としての新たな人生が始まったばかりでした。このすべての幸福が、凶行の日を境に破壊されたのです。私は、この事件のことを考えるたびに、言いようのない悲しさと苦しさを感じます。
 もし現在の日本が死刑制度を廃止したら、無期懲役が最高刑ということになります。しかし、これには仮釈放の可能性があって、死刑と対比しても軽すぎる刑罰であることは明らかだと思います。したがって、仮釈放のない無期懲役という意味での「終身刑」を導入すべきだと考えられます。
 超党派の国会議員約一二〇名で構成される「死刑廃止議論連盟」は、この意味での終身刑の導入を条件に、死刑執行を停止し、その間に国民的議論を尽くして死刑問題を考えるべきだという法案を準備しているそうです。
 私が問題提起したいのは、日本に「終身刑」を導入すべきか、ということです。

「現場から:平成の記憶、光市母子殺害」

TBSで放映された「現場から:平成の記憶、光市母子殺害」が Youtube に公開されているので、紹介しよう。

「死刑」確定後の記者会見

2008年4月22日、広島高裁は「差し戻し審」において弁護側の主張を全面的に退けて「死刑回避理由には当たらない」とする「死刑判決」を言い渡した。弁護側は、この判決を不服として、即日上告した。

2012年2月20日、最高裁判所第一小法廷は、「差し戻し審」の判決を支持し、被告人の上告を棄却する判決を言い渡した。これにより、死刑判決が確定した。

その後も、弁護団は「上告審判決訂正の申し立て」を行ったが、最高裁はこれを棄却した。10月29日、弁護団は「確定した死刑判決に重大な誤りがある」として広島高裁に再審請求を行い、法医学者と心理学者による鑑定結果を新証拠として提出したが、2015年10月30日、広島高裁は「証拠には新規性がない」として再審請求を棄却した。弁護団は、11月2日に異議を申し立てたが、2019年11月7日、広島高裁は、異議申し立てを棄却した。弁護団は、この決定を不服として、11月11日付で最高裁へ特別抗告した。

「死刑」確定後の本村氏の記者会見を伝える産経新聞ニュースの映像が Youtube に公開されている。

読者は、日本における「仮釈放のない終身刑」の導入に賛成だろうか? 「光市母子殺害事件」について、どのように思われるだろうか? 「死刑制度」の根本的な意味を、どのようにお考えだろうか?

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