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学校のヘンテコな「民主主義」

学校にはとても変な「民主主義」が存在する。

私はこれを「学校民主主義」と呼んでいるが、他にもそう呼んでいる人はいるのだろうか。

学校民主主義は、日本人の「民主主義」観が如実に表れたいくつかの歪んだ特徴がある。

どれも全く民主主義の本質から離れているが、恐らく当の本人たちは民主的だと思っていると思われる。

民主主義の一つの帰着である衆愚政治とも異なるタイプの失敗がそこにはあるのだが、全く注目されていない気がするのであえて文にしてみた。

民主主義とは何なのかを一度でも真剣に考えたことのある人にとっては、非常に興味深い現象だと思う。

①「義務」全無視の権利の主張
民主主義における権利には必ず義務が付随するものだが、学校民主主義においては権利獲得の条件である義務が存在しない。
生徒総会で出てくる要求・提案も殆どが公共心ゼロの個人的な要求に終始する。(例:スマホを自由化してほしい。制服を無しにしてほしい。など)

②立候補→推薦→多数決という流れ
日本の子供たちの議論の下手さは世界トップレベルだと思う(大人も下手たが)。

【特徴】
・全体のゴールが共有されていない。
・司会が全体に質問を投げるとき、何を聞いているのかが曖昧。
・構成員の大半が議題に当事者意識を持っていない。
・質問や反対意見を「攻撃」と捉える。
・拾うべき意見と流すべき意見を判断できない。
・司会者が少数の個人と話し込む。
・検討材料を出しきる前にすぐ多数決で決めようとする。
・立候補が出るわけがないような場面でとりあえず立候補を募る。その後「推薦」という押し付けあいが始まり、最終的に多数決かじゃんけんでことか決まっていく。

このような劣悪な「話し合い」の後、教員は何ら話し合いのやり方そのものにフィードバックを返さない。いや、返せない(本人も議論のいろはを心得ていないため)ので、生徒の話し合いのスキルはいっこうに向上しない。

何より問題は、これらの活動を通して民主主義を疑似体験させようと意図しているくせに、学校自体に民主主義とは何たるかいう確固たる解釈ないし哲学が完全に不在であると言う点だ。

子供たちの罪と言うより、そこかしこで生煮えの民主主義が跋扈するのを看過している日本社会全体の罪か。

でも社会のせいにするのは、何かを言っているようで何も言っていないのと同じなので、自己反省の意味も込めて言うと、教育機関として伝えるべき哲学を放棄している学校と教員の罪なのだと思う。

西洋のように幾世代にもわたって血を流しながら獲得していった民主主義ではないので、どうしてもこの程度の民主主義教育になる。

18歳に投票権を獲得させる前に、民主主義の何たるかを徹底的に教える教育が大人にも子供にも必要な気がする。

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