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赤い橋で待ち合わせ【A】

 橋が架かっている。
赤い橋だ。何もそんなしゃれたものではない。ただ昔からあるような、古びた、ぱっとしない橋。
 その橋が架けられたころはもしかするとモダンだの何だの言う人があったかもしれないが、今はもう誰もそんなことは言わないし、というより見向きもされない。時代に取り残された、と言うような形容がふさわしい、目立たぬ地味な橋だった。
 けれど子供はその橋が好きだった。何やら古ぼけた橋がユニークに目に移りでもするのだろうか、子供らはいつもその橋のたもとで戯れ、時としては待ち合わせ場所として橋を使った。
 待ち合わせ場所として橋を使うのは何も子供だけではない、大人たちもよく橋を待ち合わせに使った。
 町の片隅にひっそりとある橋は、立地的にもシンボル的にも何か待ち合わせ的なニュアンスを発していたのかもしれない。
 しかしそこで行われる待ち合わせは、決して明るいものではなかった。明るく若い待ち合わせは、おおむね町の中心地の総合スーパーのテナント前で行われた。
 では、明るく若くない待ち合わせとは一体どんな待ち合わせだろうか……それはどちらかというと、暗い意味を持ち合わせている。
 後ろ暗い過去を持つ男女の逢瀬だとか、工場の資金繰りに喘ぐ町工場の社長とその旧友だとか、あるいは生き別れになった親子の再開だとか、もっぱらそういう事柄に用いられた。
 子供らは存外空気を読む生き物で、これらの逢瀬がなされているときは決まって姿を現さなかった。たいてい逢瀬は白昼の、子供らの姿が消えた、あたかも幻のような橋のかたわらで行われる。
 生き別れになった親子などそうあるものか、と人は言おう。けれどこの橋のかたわらで行われる逢瀬で、最も多いのが不倫の逢瀬、そしてその次に多いのが生き別れの親子の再会である。
 そもそも生き別れの親子が再び相まみえるなど聞くだに華々しくめでたいことではないか、そう主張される向きもあろう。しかし、違う。
 華々しくめでたい親子の再会は町の中心地の総合スーパーのテナント前で行われ、華々しくなくめでたくもない親子の再会がこの橋のかたわらで行われるのである。
 ……何故、この町に生き別れの親子がそれほど多いのか、それについては措いておこう。
 例えば、そう、このように親子の再会は行われる。

 赤い橋のたもとで遊んでいた子供らが3時の時報を聞くや否や、おやつ欲しさにそれぞれの家へ駆け戻る。子供らの消えた路地はうっすらと埃っぽく、陽光の吹き溜まりのようになり、眠たそうな猫が橋の片隅を渡ってゆく。
 橋の近くにある駄菓子屋の、と言ってもとうに廃業している、閉めきられたシャッターに薄い人影が差し、辺りを伺うように首をめぐらす。親である。静まり返った路地に人影がないのを見て取って、そっと胸をなでおろす。
 数年前に別れた我が子の面影を思い出し、今はどんなにか大きくなっているだろうと胸は期待と不安にさざなみだつ。
 あの子を捨てて出て行ったのは俺じゃないか。ほんの浮気のつもりが本気になって家庭を捨てて、不倫相手と駆け落ち……二人で所帯を持つものの、不倫相手の女は数年で蒸発してしまう。新しい男を見つけたのだろう。蝶々のように奔放な女の姿を思い出し、親は短く吐息。
 かといって今からすごすごと妻子のもとに帰れたわけじゃなし、しかし家を出たときにまだよちよち歩きだった子供のことが気にかかる。どうにかしてあの子にだけは会いたい。彼の思いが通じたのかどうか。
 ある日、一通の葉書がポストに舞い込んだ。小学生らしい拙い字で、彼の姓名が書いてある。差出人の名前には、彼の子の名前。葉書は父を懐かしみ、どうか一目会いたいと書いてあるのだった。
 彼もさっそく返事を出す。ただ、前妻に気づかれぬよう、名を変え、筆跡を変え……子供のスパイごっこのようなやりとりが数回繰り返され、ようやく親子は会うことになったのだ。
 ーーあの子の姿が俺は分かるだろうか。
 よちよち歩きだった赤ん坊が今ではもう小学5年生だ。さぞ大きくなったことだろう。葉書では野球をやっていると言っていた。
 ーーそうだ、俺は息子ができたらキャッチボールをやりたかったんだ。そうだ、俺は……
 妻の腹が膨れ上がったとき、彼の夢もまた膨れていたのだった。何故、忘れていたんだろう。彼は夥しい感傷とともに、我が子が現れるのを待った。
 やがて、子供が現れる。
 赤い橋の、向こう側からやってくる……淡いかげろうに包まれて、まるで物語のような歩調でやってくる……
 彼は、駆けよる。心配は杞憂で、彼は一目見て自分の息子だと分かった。息子も同じだったようだ。二人は抱き合い、はにかみ、互いに距離をつめながら、一言ふたこと話し出した。
 親子は抱擁を繰り返し、まるで二人でひとつの影のように睦み会いながら、男の家へと向かってゆく。

 華々しくもあり、めでたくもあるじゃないか、と人々はいうかもしれない。しかし、違う。それは物事の本質を認めていないからだ。何故ならこの後、彼らに待ち受ける展開はこうだ。

 彼は自宅へと子供を招き入れる。
 子供は父が女に捨てられたことを悟り、それからぼんやりと父の姿を見つめる。長年あこがれていた父だ。
 子供は母にひどく叱られるたび、幻想の中の父を思い描き、それを支えに生きてきた。子供の中で、父は強く、優しく、もはや神格化されている――再会した時こそ感動で、父の姿は輝いて見えもしたが、しかし今はどうだろう。
 落ち着きを取り戻したまなざしを改めて据えてみれば、どこにでもいそうなただの中年男である。長らく女の手を離れていたせいかどことなくくたびれ、少しばかり清潔感にかけ、生活に疲れ切ったような……ここまで考えて、子供は初めてぞっとした。
 これが僕の父なのか。今まで僕をずっと支えてきてくれた、ヒーローのように信じていた父なのか……
 絶句。
 子供の想像していた父と、現実の父との間に、越えられようのない明瞭な罅が入った瞬間だった。
 子供はあまり、喋らなくなった。
 父親は何か必死で話題を探そうとしたが、無駄だった。親子の間に、味気のない沈黙がひたひたと寄せた。
 やがて日が暮れる頃になると、子供が腰を浮かせた。父の家には子供の好くようなお菓子がひとつもなかったため、お腹がすいていたのだ。
 子供の心にはもはや今日の晩御飯のことしかない。あんなに嫌気がさしていた母の作ったご飯が恋しくてたまらない。
 母は父の幻想に勝ったのだ。いや、父の現実に勝ったのだ。
 高らかな勝利宣言のラッパの音を聞きながら、父はなすすべもない。子供は自分の心に起こった変化など、気が付いていない。ただ早くこの退屈な部屋を逃れ、自分の帰りを待つ母のもとへ心だけは一足も二足も速く……
「卓志」
 父が、子を呼ぶ。
 子供は振り返る。
 何故そんな声を出すのかとーー子供の語彙にあるはずもないが断腸の思いとでも呼べそうな、そんな声を出すのかと、子供は心底不思議だった。
 僕はお父さんの家に遊びに来て、またお母さんのもとへ帰ってゆく。ただ、それだけのことじゃないか。それなのに何故、
「そんな顔をしているの、お父さん」
 父親の絶望が、子供には分からない。
 父はうなだれて、子供の顔から眼をそらす。
 この子はもう二度とこの家へは来ないだろう。そんな予感が胸をよぎった。
 父は子を送り出した。
 子供を失った家は、元の静けさを取り戻した。数年をかけて堆積した疲労も埃も、子供が足を踏み入れた途端にぱっと減じたようだったが、それも今子供を失ってすっかり元の様子に戻ってしまった。
 家はまだいい。
 問題なのは父親だ。
 瞬間的に明るんだ彼の心が隅々まで照らすようだった肉体は、再び光を失い、これ以上ないぐらいに疲弊した。その澱みを払う光はもう二度と訪れまい……
 彼は、椅子に腰を下ろす。
 先ほどまで我が子が座っていた椅子だ。まだ少し温かい……子供の体温を感じながら、彼は泣いた。
 涙はほとんど出なかった。ドライアイのおかげだった。涙がわずかだったおかげで、彼の絶望はそれ以上深まることをしなかった。
 しばらくして立ち上がり、ひとつ大きく伸びをして、それから明日の仕事のために寝床へ向かった。今日ばかりは風呂に入る気がしなかった。

 子供は、歩いている。
 夕闇の立ち込めた路地をたどり、先の赤い橋のほとりにゆきついた。何だかぼんやりしている。ひどく大切なものを失ったような、そうでもないような……子供の足は、鈍りがちだ。本当にこれでよかったのだろうか? 自問するが、答えは出ない。

 このように、華々しくもなければ、めでたくもない親子の再会に赤い橋は多用されるのである。
 彼らがどのような思いをもって待ち合わせにこの橋を選ぶのか分からない。が、来る薄暗いものへの予感が、彼らにこの橋を選ばせているような気がしないでもない。逢瀬の最初はいずれも華やかであるのだから……

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