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【エッセイ】普通って難しいよね

いやほんと。
「普通」って難しいよね。不意にそんなことを思う木曜日。

エッセイとしつつも、今日は特に取り止めのないお話なので、いつもよりゆるりとお付き合いください。

【普通・ふつう】
いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。

Google大先生

この、「他と特に異なる性質を持ってはいないさま」ってところが、今回の話のキモになる部分だ。

なろほど、「普通」という感覚や価値観、判断基準は「他」という比較対象があって、初めて成立するものなのだなと、改めて知る。

言うなれば、「みんなと同じ、みんな一緒」というものが「普通」の正体。

その「みんなと同じ」は、たとえば社会的に正しいとか間違っているとか以前の、もっと手前のラインにあるものだ。



「みんなと同じか、そうではないか」

言葉通り受け取るのであれば、「普通」かどうかの判断はその一点に尽きる。

…いや待てよ。
この場合のみんなという言葉が持つ、全体から見たときの割合ってどんなものなのだろうなと、また私は辞書を引く。辞書だいすき。

【みんな】
「皆」の意。複数名いる中でその全員を指す語。

weblio辞書より

え!そうなんだ。

みんなって、そこにいる人「全員」を示すのか、それは知らなかった。九割くらいでみんなだと思っていた。
そんな具合に、言葉が持つ感覚のズレを、少し訂正しつつ。

例えば、みんながりんごを見て「これは赤色だ」というとする。すると、「りんごは赤色」が「普通」ということになる。

そこにもし「緑だ!」という人が現れたら、それは「普通ではない」ということになる。

ただ、「りんごは赤色」と言っている人の中に、一人でも「この世には、青りんごというものもあるよ」と知っている人がいたら、「緑だ!」と言った人が「普通ではない」というレッテルを貼られる可能性は恐らく、ぐんと低くなる──。

…青りんごの話をしたいのに、視覚的情報を優先して緑と言ってしまって、色がごちゃごちゃしちゃったけども!笑

結局ね、何事も知っているか知らないかの問題だと思うんですよね。

きょうび、多様性だ何だと言われている。
「普通」の言葉の意味そのままに準えるのであれば、「いつ、どこにでもあるような、ありふれたもの」にさえなってしまえば、何でも「普通」の仲間に入ることができるわけだ。

私たちは、青りんごがありふれたものであることを知っている。
そりゃあ赤いりんごの方がメジャーではあるけれど、青りんごというものがあることを不思議に思うことはない。

だから、例え「りんごは赤色」という人の中に「緑だ!」という人がいても、一瞬驚くことはあったとしても「まあ確かに、それも有り得る」と、スッと納得することができると思う。

何が言いたいのかというと、つまり「何でも知らないより知っていた方が、普通の幅は広がって楽しいよ」ということだ。


知らないことは、罪ではない。
ただ、「知らない」ということを把握していながら、知らないままにしておくことは、怠慢だとは思う。

赤やら青やらと色の話を引き合いに出したので、そのまま色の話を続ける。

日本の虹は「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」の七色だ。

海を渡ると、アメリカやイギリスでは「藍」を省いて六色になるし、五色や四色と認識している国もある。

そういったことも、知らないと「普通ではない」と排除してしまうことになりかねない。
四色で描かれた虹を「虹だ」と認識できなくなるって、それはそれで惜しいことだ。

どんな理由でその四色になったのだろう、日本と比べると何が違うのだろうと、「知るきっかけ」がこんなにもしっかり用意されているのに…!


「普通」。

ひどく曖昧で、難しくて、それでも共通認識を持ちたがる人間とは、切っても切れない価値観だ。

どうかこの先も、自分自身の「普通」を柔軟に認識していきたいし、他者の「普通」にも柔軟でありたい…!

そんなことを薄ら寒い部屋で、ほぼタンクトップのようなものに、外には出られそうにない毛玉だらけのズボン、謎に派手な色の靴下という、ちょっと「普通ではない」格好で考えている私なのであった。

明日も寒いらしい。
とりあえず「普通」に近づくために、パーカーを追加しようとは思う。

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