見出し画像

誰にも言えなかった母のこと(続き)

こんにちは。
今日は気持ちの良いくらい秋らしい空です。
このnoteを書いた後、ジョギングでもして汗を流したいと思います。

昨日は長々と、亡き母親のことを書いてしまいました。
暗い話ですみませんでした。
でも、これっきりでいいのでどうしても書いて吐き出したい気持ちが抑えきれず、書いてしまいました。
読まれた方はどうかは分かりませんが、なぜか僕自身はすっきりした気持ちになっています。
もうやめておこうと思いましたが、もう一日だけ母のことについて書いておきたいと思います。

昨日も少し触れましたが、僕の双極性障害の原因は、少なからず生い立ちにあったのではないかと勝手に思っています。
その中でも、やはり母の影響は大きかったと思います。(遺伝的要素や育てられ方、突然の事故死も含めて)

それでも母を恨んだり、嫌いになるような気持ちは全くありません。

そう思えるようになるまで時間はかかりましたが、むしろ今となっては「母に産んでもらってよかった。母の子でよかった」と思っています。その気持ちはこれからも決して変わらないと思います。

…と、死をきっかけに綺麗に終わることができれば良かったのですが、やはり母は一筋縄ではいかない人だったのです。

僕にとって酷くショックなことが、母の死後に判明しました。

それは、僕には父親違いの姉が2人いたということです。

母は父との結婚が2回目で、初婚の際に女の子を出産していました。
しかし、母は家庭を守れるような女性ではなかったので、突然家を飛び出してそのまま家には帰らず、結局その後離婚してしまったようです。
その時姉はまだ小さく、当時のことはあまり覚えていないものの「母に捨てられた」というつらい気持ち、恨みをずっと抱えていたようでした。
母が亡くなった後、連絡先が分かったので一度その姉に連絡をしましたが、ひどい剣幕で「今さら何?あの人は私を捨てたのよ!死のうが何しようが関係ない!」と怒鳴られて、電話を切られてしまいました。

しかし話はそれで終わりではなく、母はさらにその後、別の男性との間にも女の子を出産していました。(その後に父と再婚して僕と妹を出産)

それが二人目の姉です。

しかも、その二人目の姉は「非嫡出子」として生まれ、乳児院に預けられた後、児童養護施設で育てられていました。
その姉は、両親の顔を全く知らず、自立するまでずっと施設で育てられていたのです。

この事実を知った時は、さすがにショックを受けました。

二人の姉に対して申し訳ない気持ち…。特に二人目の姉に対しての罪悪感。母親に対しての怒り、恥ずかしさ、軽蔑心など、言葉にできない複雑な気持ちでいっぱいになりました。(母の血を引く自分自身も嫌になりました)

心の底からショックでたまりませんでした。

しかし、それでも僕にも仕事や日常があります。
表面的には普通、もしくは普段より明るく振る舞っていたような気がします。子どもの頃から、つらい時やしんどい時ほど明るく笑顔で振る舞う癖が付いていたので、ある意味それは得意なことでした。
仕事も職場が変わってすぐでしたが、普段以上に張り切っていたように思います。

しかし、数ヵ月経ったあたりから心のバランスが崩れ始め、徐々に抑うつ状態が見られ始めました。
そして母が亡くなった半年後に、とうとう突然倒れて動けなくなりました。

これ以降は、躁と鬱の繰り返し。まさしく躁うつ病(双極性障害)になってしまったのです。(この後のことはまたいつか書きますね)

以上で、今日の話はここまでにします。

また今日も暗い内容になってしまいましたが、やはりこうして書いてみるとなぜか僕自身はすっきりした気持ちになっています。
でも、あまり毎日暗い話はどうかと思うので、明日以降は明るい内容が書けるように努めたいと思います。

少し体を動かして、リフレッシュしてきます。

それではまた明日。

補足です。
二人目の姉が育った乳児院は、僕が23年間働いた施設と同じ法人内にある乳児院でした。しかもその後に育った児童養護施設は、母の遺骨を納め、永代供養をお願いしている、そのお寺に作られた施設だったのです。
これには強烈に運命的なものを感じました。

#日記 #家族 #メンタルヘルス #休職 #双極性障害 #躁うつ病 #毎日note #毎日更新


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?