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誰にも言えなかった父のこと

こんにちは。

今日は朝から肌寒いですが、ようやくお日様が顔を出して、少しずつ暖かくなってきました。(と思ったら、またどんより曇ってきました)
皆さん、くれぐれも風邪など引かれませんよう、お気をつけ下さい。

そうそう。そうなんですよね。

寒くなってくると父親の体調がますます気になります。
(母親のことは以前noteに書きましたが、父親のことはまだ書いていませんでしたね)

今日は僅かながらですが、父のことを書き残しておこうかと思います。

ただ僕は、長らく父のことについては深く知りませんでした。

僕は18歳まで父と一緒に暮らしていましたが、とにかく折り合いが悪かったため、あまり口を利くことはありませんでした。

しかし僕も大人になり、父も老い、病気がちになったため、嫌でも向き合う機会が増えました。結果、僕の父に対してのわだかまりが解けていき、直接話をする機会が増えました。

その父から聞かせてもらった話と、僕の子どもの頃の記憶を合わせて、つらつらと、書き残しておきたいと思います。

父は現在83歳。来年の2月で84歳になります。

今も西成で、ひとり暮らしをしています。

体調はここ10年くらい、あまりよくありません。

7~8年くらい前から肺気腫のため、在宅酸素を使って生活しています。
(酸素ボンベがないと、立ち座りをしただけでもゼーゼー言って呼吸が苦しくなり、死にそうになります)

前立腺がんも患っていますが、年齢も年齢なので、がん細胞も急いで悪さをしようとはせず、今のところ助かっています。

僕が子どもの頃の父に対しての思い出と言えば…。父は仕事以外の時間はほとんどパチンコ屋にいたのでありません。笑
(母は「おとうはパチンコさえやってなかったら、今頃家2件ぐらい余裕で建ててるわ!ほんまあほや!」としょっちゅう嘆いてました。でも僕から言わせれば「おかあよ!どの口が言うとんねん!?アンタも大概家のお金むちゃくちゃしとるがな!」って、いう話ですが…笑)
*母の詳細は以前noteに書いているので、そちらをご覧ください。笑

正直、とにかく怖かったです。

父は、昭和12年の2月に北九州の小倉で生まれました。(僕も生まれは小倉です)

父の母(僕の祖母)は、15歳の時に父を出産したとのことでした。
(祖母は肺がんでのため、50代で亡くなっています。僕が5歳の時に祖母は亡くなったので多くの思い出はありませんが、すごく可愛がってくれたことは覚えています。長年ずっと屋台をやっていたのもかすかに覚えています。僕もちょいちょい遊びに行ってました。その屋台一本で家を建てた、もの凄いおばあちゃんでした)

祖母は若い頃に離婚して、子どものいる男性と再婚したようです。
(詳しく書くと長くなるので割愛しますが、その再婚をきっかけに父は家を出たようです。父はよく「ワシは自分の親に育ててもらってない。お袋はワシと妹じゃなく、ジイさん(再婚相手の男性)の子どもたちの面倒だけを見ていた」と言っていました。おそらく祖母はそうせざるを得なかったのでしょうが、父にとっては大きな心の棘になっているように感じました)

そんな事情もあり、父は中学時代から現場仕事に出て稼がざるを得なかったようです。

父の職業は、とび職(息子の僕が言うのも何ですが、かなり腕は良かったようです。父の仕事仲間のおっちゃんらによく「あんたのオヤジはさんは凄いんやで。そんじょそこらの鳶とはわけがちゃうねんで」と、よく言われました)でしたが、中学生の頃には炭鉱に潜る仕事もしていたようです。
(父は「高いところに上るのは何てことないけど、炭鉱の仕事はめちゃくちゃ怖かった」と言っていました。あと余談ですが、昭和20年8月6日に、広島に落とされた原爆が当初の予定通り小倉に落とされていたら、この時父は小倉にいたので、おそらく死んでいたし、そうなると僕も生まれていなかったと思います)

それ以降、どこでどうなって母親と出会って結婚して僕が生まれたのかなどは、全く知りません。(聞く気もなかったし、訊いたらあかんような「何か」を感じていました)

何はともあれ僕が5歳の時(昭和55年)、祖母が亡くなったことを機に、松永家(父母・僕・妹の4人)は小倉から大阪(浪速区・西成区)に出てきました。

父は仕事に関してはものすごく真面目で、何があっても絶対に穴を開けたりしない人でしたが、仕事以外はからっきしダメ。家に帰ってくると酒を飲むかパチンコに行くかだけの生活でした。
(もちろん家族旅行なんて行ったことがないです。唯一の旅行(?)と言えば、僕が小学2年生の夏休みの最後の日、8月30日の夕方に父が突然車を借りてきて「今から海行くぞ」と言って、突然須磨に一泊しに行ったことがありました。もちろんクラゲも出るし、海にも入ることができず、とても旅行と言えるものではありませんでした。でもその時は母親も一緒にいたし、ほんの少しですがうれしかったような、でもやっぱり複雑だったような、何とも言えない気持ちだったと思います)

あとはもう…。とにかく手が早かったですね。笑

食事の時には俗にいう「ちゃぶ台返し」がしょっちゅうありました。

そして、怒られる時は「殺されるんちゃうか」と思うくらい、何発もどつきまわされました(みぞおちを蹴られたら息ができなくなるということは小学生の時に、身をもって父に教えられました。笑)

母親とはまた質の違う恐怖を、僕は常に父親に対して感じていました。

「怒らしたら、終わりやなと…」

(ちなみに父は、パチンコ屋の台のガラスも何枚も割っています。パチンコ屋の台のガラスを割ると、どれだけ怖いことになるのか、それは父が身をもって僕に教えてくれました。だから皆さん、いくら出ないからと言って、怒りに任せて台をどついてガラスを割るようなことは、絶対にしないでくださいね。怖いですよー。今はしらんけど。笑)

まぁ、自分が悪いことをして父にどつき回されるのは、ある意味仕方がないことなのですが(それでも怖すぎました)、何よりもつらかったのは母がしばかれている時ですよね。

「しばく」というより、完全に「どつき回されて」いました。

昭和の時代の夫婦喧嘩は、本当に恐ろしいです。笑

とにかく夫婦喧嘩になると母も気が強いので、まず母がわめき散らす…。
すると父がぶちぎれて、母を殴る、そして蹴る…。
そうなるともう、一方的に母がどつき回される…。
そこに僕が止めに入る…。
すると僕も一緒にどつき回されて、蹴り倒される…。

さすがに小学生のうちは、全く歯が立たず、やられたい放題でした。笑

家の中での喧嘩もつらいですが、悲惨なのは、外(天下の往来)での夫婦喧嘩です。

母がしょっちゅう家出をしていたことについては、以前のnoteに書きましたが、その家出の最中にバッタリ父と母が遭遇することがあるんです。

母が家にいないので、夕食を食べるために僕と妹は父に連れられて、新世界やジャンジャン横丁、飛田本通り商店街など、あの辺りを歩いているんですね。

すると、母は目がほとんど見えないので、父や僕や妹に気がつくのが遅れるんです。

逆に父は視力が2.0あるんで(今それはどうでもええわ!)すぐ母に気づく。

その瞬間、僕は全身に悪寒が走るんです。(「オカンが走る!」と、ちゃいますよ。笑)

あっという間に、ボコボコですわ。

道のど真ん中で、母が父にボコボコにされる風景…。

一度や二度ではありません。

むちゃくちゃきつかったです。笑
(今やったら警察がすぐに来るでしょうね…。あの当時と今では全然違いますもんね。西成も随分平和な町に変わりました…)



あー!!!

眠たーい!!!


突然眠気が来ました…。昼寝したいです…。

そして、つらつらと書いて来ましたが、早3000字を超えました。

まだ書きたいことはこれからなのに、もう3000字を超えてしまいましした。


一体「誰が興味あんねん!」という内容ですが…。

・「お前はワシの子やない!〇〇の子や!」
・「お前にワシの気持ちが分かるんか!」
・「お前に義理っていうものが分かるんか!」
・「なんや?ワシをどつくんか?やれるもんならやってみぃ!」
・「体育科なんか行って何の役に立つんや?高校なんか落ちてまえ!」
・「大学行くカネなんてあるか!行くんなら自分で何とかせぇ!」
・「オンナができたら責任の取れんことだけはするなよ」
・「オンナなんて世間にはなんぼでもおる」

上記8点は僕が小学生~高校生までの間に、父に言われた言葉です。

この辺りのことも書きたいのですが、果たしてこれを読んでいる方はおられるのでしょうか?笑

そしてまた、お付き合いいただける方はおられるでしょうか?笑

こんなことを書いているうちに、3500字になりました。

さすがにいろんな意味で限界なので、この続きは次回にさせて頂きます。

お付き合いいただける方は、ぜひともよろしくお願いします。

それではまた明日。。。

失礼します。。。

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