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青ざめたやさしさ、そしてASDのこと


わたしは、長年にわたって自分の“やさしさ”がコンプレックスだった。これがあるために出来ないことが多すぎるし、表現の幅も自ずと狭くなってしまうから。
それに、やさしさは社会一般の印象として“女性らしさ”に繋がる。だから、わたしのやさしさが露呈したとき、多くの人は「女の子らしくて素敵だね」と褒めてくれた。その度にわたしは、どうしようもなく悔しい気持ちで大人を見上げるしかなかった。このやさしさが「女の子の」ものではなく「自分の」ものであると叫びたい衝動に駆られながら。これは前回書いた、少女性を愛せない理由の一つにもなった。

多分、自分以外にもこのやさしさに悩まされる人は多くいると思うし、会った瞬間、何となくわたしと同じだ、と感じる人がある。ただ、どうしてかそんな人とは“やさしさ”がぶつかり合ってうまく機能しないのが常だった。お互いに「他者」であるうちは、やさしさを共有することができないのだろうか。まるで綺麗に盛り付けられた一つの皿を前に、「さあお食べなさい」と譲り合っているうち、料理が冷めてしまう、といった具合に。

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先日、あまりに物忘れがひどく困り果ててしまったので、ADHDを疑って病院に行ったら典型的なASDと診断された。先生に言われた性格の特徴や考え方のクセはどれも、透視されているのかと思うほどわたしに当てはまり、少し恐ろしくなるほどだった。ただ、今わたしが取り組んでいる「自分」への探究という過程のなかで、現代の精神医学が学問としてどこまでわたしを分析できるのかという半ば好奇心での受診だったので、その意味で結果は上々であった。
わたしの性質としては、例えばモノへの強いこだわり。人の表情や雰囲気を情報として得ることはできるのに、対応ができない。作業の中断ができない。極端に人の顔と名前を覚えられない。(これは本当にご迷惑お掛けしています、すみません。ちなみに嵐5人の顔と名前は今でも分からない) 根拠のないルールが守れない。真面目な性格なのになぜか校則違反を繰り返して先生に目をつけられていた中高時代がまさにそうだった。あとは、性自認の曖昧さ… こんなことまでASDという一性質に由来していたかもしれない、と知って虚無感に襲われると同時に、真相に近づいたようで心なしかわくわくしている自分がいる。
けれど、家族以外の人にこの性質のことを伝えても、なかなか信じてもらえない。ちょっと天然な(わたしはここにも“女の子”はちょっとヌケているくらいが可愛いという社会のフィルターを感じる)人として扱われる程度である。
それもそのはず、周囲が今までこのことに気づかなかったのは、ASDの性質を相殺するある強力な要素がわたしに備わっていたせいでもあると思うのだ。それが、“やさしさ”である。やさしさはつまり究極の利他主義なので、「相手の立場になって考えることが苦手」というASDの性質とはある意味で正反対に位置するし、相殺する効果があったのだと思う。

わたしは昔から、自分の中に相反する二つの性格があると感じていて、小さい頃にはそれらを「少年」と「少女」として絵に描いてみることもあった。これに関しては、前回の少女性を愛せないでも触れた。

挫折や失敗のたび、わたしの内部の“少年”が同じく内に棲んでいる少女を激しく叱責した。
ただ、外部からその少女が攻撃されたとき、それを庇って傷を受けるのはいつも少年であった。

この不思議な感覚が、まさかこのような形で説明がつく可能性があるとは思いもしなかったので、今すべてが腑に落ちたような気持ちでいる。

ときに、究極の利他主義は「無関心」に発展することがある。わたしの場合、それが二つの性質の行き着くところなので、顕著に出てしまうことが多い。“やさしさ”はこの状況を責めるので、幾度となく「どうして自分はこんなにもあっさりとし過ぎているんだろう」と悩んできたし、どうして他者(通行人から友人まで)が自分に興味を持つのかが分からなかった。

作家でいえば、この無関心とやさしさを同居させようとしたのはトーベ・ヤンソンだと思っている。彼女の作品、特にムーミンのシリーズについては、人々の間に過度な干渉というものがない代わりに、たしかな愛と尊重がある。
それから、オルコットの『若草物語』でも、人と人の結びつきにおいて起こる「愛」こそが本質的なものなのだと、全編を通して真正面から“やさしさ”を肯定している。

不思議なのは、二人の作家がどちらも、少年と少女という相反した性質の持ち主であったこと。わたしは、そこに一つの答えを見出した。

真の“やさしさ”を持つ人が唯一やさしさを向けられない対象がある。それは、自分である。自己肯定というのは、やさしい人にとってもっとも困難なことであり、決して他者が解決してくれるものではない。(何より他者に頼るというのはやさしい人にはとても難しいことだ) 自分を肯定するという、人生において重要な通過儀礼のなかで、自らの「愛(=やさしさ)」を自分なりの方法で認めようという懸命な努力が、どちらの作品にも現れている気がしてならないのである。

わたしはといえば、今でははっきりと「自分が好き」だと言えるようになった。最近まで、自分のやさしさにばかりかまけていて、自分が受け取ってきたやさしさに気づくことができなかった。本来、やさしさも愛も尊重も、お互いに与え合うものなのだ。これに気づくことができたのは、自分にとっての大いなる出航であり、出奔であった。その航海が辿りつく先がどこであるかは、さておき。


ところで、わたしは愛と同じだけのエネルギーを持つものに、唯一「妬み」があると思っているのだが、この話はいずれ……


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