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あんた自己チューね、と言われたら

結論から言います。

「あんた、自己チューね」と言われたら、それは堂々と自分の人生を好きなように生きている証拠になります

そういえば、この"自己チュー"って、もう使われない言葉になってしまったのでしょうか。

自己中心的な発言、行動、生き方をする人が「自己チュー」です。

極論は、法律に触れるレベルまで他人に迷惑をかける人になりますが、今回それではなく、他人と共存できているレベルの「自己チュー」です。

○あんたは自己チューね

私の中学時代は、「自己チュー」という言葉がやたらと流行っていました。

突然、昔の風景が蘇りました。

私は運動部のマネージャー。レギュラーに入るか入らないか、ギリギリのラインにYちゃんはいました。

当時、自己チューで有名なYちゃん。

主力メンバーではないのに、態度が大きく、気も強くて敵も多い存在でした。

ある日、そんな自己チューY子ちゃんから、

「アンタってさ、自己チューだよね」と指摘されました。

会話の文脈も読み取れないほど唐突で、最初は誰に言っているのか?と周囲をキョロキョロ。

冷静になって、自分か?なんてことを言われたんだ!とショックを受け、

頭の後ろからかなづちで打たれたような衝撃の余韻が続きました。

「えっ‥」

自己チュー??ん‥?私が?

気が弱かったので何も言えず、ただ静かに傷ついただけでした。

○今ならこう返す

「私は自己チューなのか??」

当時、しばらく悩んでしまいました。

特に一番言われたくない人に言われたので、この人に言われるレベルは相当だと、覚悟しました。

いろんな人に聞いて回りましたが、答えらしい答えは得られず。

もし、あの頃に戻れるなら、どこがどうそう思わせたのか直接Yちゃんに聞きたいし、反論したいところですが、

今現在の自分に言われたらこう返すでしょう。

「ありがとうございます!!!」

はい?何で、ありがとうなのかと。

成長した今だから、胸を張って言えます。

もう考えてみたら、ありがとうしかないのです。

○「自己チューだね」には「ありがとう」

理由二つ。

まず一つ。

自己チューと言われるほどということは、ずっとそんな態度・生き方なんでしょう。

スポット的な一瞬の自己チューさではありません。

一瞬では「あの人、今日はちょっとだけいつもと違うな〜」で終わります。

そうではなく、他人に「あぁやっぱり自己チューだぁ!」と思わせるほど、自己チューな瞬間が多いのです。

点と点が線でつながり、線と線がつながり面になるほど。

そんな生き方が出来ているということは、自分の思うように生きられているということです。

ステキじゃないですか!

そして二つ目のポイント。

それは周囲の協力なくしては、成り立たない生き方なのです。

自己チューも受けてくれる相手があってこそ。

例えば、やりたくないことをやらない。

そんな自分の主張も、今ある環境だから通っているし叶えられているんです。

だから、こんな生き方を支えてくれてありがとう♡という周囲への感謝の意味もあります。

○人に嫌われたら自由に生きている証

人の気持ちを察することが得意な私には、自己チューと呼ばれることが、時としてうらやましく、越えるには高い目標です。

アドラー心理学の代表である青い本『嫌われる勇気』にもあります。

自由とは、他者から嫌われることである

著者の哲学者 岸見一郎先生は、ある時にこうもおっしゃっていました。

あなたが誰からも嫌われていないということは、もしかしたら自由に生きられていないのかもしれない

自由に生きることは、嫌われることとセットですし、

「自己チューね」

と言われたら、好きなように自由に生きられているサインになります。

今度「あんた自己チューね」と言われたら、ありがとう!と返したいと思います。

まずはその前に、

自己チューね!って呼ばれたいな‥



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