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茶道とフラと、人生と。 〜 「日日是好日」 〜 ②

前回①の続き♪


季節と供に変化する、お茶の道具やお点前。本当に素敵だと思った。

茶道は生き方であり、「生きもの」にも見えた。

それは、人間の日々の暮らしと同じ。自然と供にある私たち人間にとって、今日と明日が同じであるはずがない。

季節、気候、人の心、人との関わり方、生と死など、移りゆくものだらけなのだから。

私たちは、雨が降ると、「今日は、お天気が悪いわ」などと言う。けれど、本当は「悪い天気」なんて存在しない。
雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も「いい日」になるのだ。毎日がいい日に……。

「これは良くて、あれは悪い」と決めているのは我々人間。

そう言う思い込みや決めつけを解き放ち、あるがままを「受け入れるのですよ」とフラの先生はよく言っている。

先生はどんな時も淡々と、あらゆることを受け入れ、時に受け流し、どんな人をも許す。

世の中は、前向きで明るいことばかりに価値をおく。けれど、そもそも反対のことがなければ、「明るさ」も存在しない。どちらも存在して初めて、奥行きが生まれるのだ。どちらが良く、どちらが悪いというのではなく、それぞれが良い。人間には、その両方が必要なのだ。

自分にとって都合が悪い人の存在も、不条理な出来事の数々も、どの角度から見つめどこに焦点を合わせるかで、「悪」では無く人生においての必要なピースとなる。

茶道もフラも、きっと真髄は同じ。


そして、ちょっとまた違ったレベルで視界がひらけるような感覚を得たのがここ。

先生は、言わないのではない。言葉では言えないことを、無言で語っているのだった。
本当に教えていることは、目に見えるお点前の外にある。

…言葉で言ってしまっては、伝わらないものがある。先生は、私たちの内面が成長して、自分で気づき、発見するようになるのを、根気よくじっと待っているのだった。

著者の森下さんは、気づいたことやお茶の先生に言われたことを紡ぎ合わせ、「お点前の外にある」教えが何なのか、自分なりの答えを自分のタイミングで見つけ出していく。

本当に知るには、時間がかかる。けれど、「あ、そうか!」とわかった瞬間に、それは、私の血や肉になった。
もし、初めから先生が全部説明してくれたら、私は長いプロセスの末に、ある日、自分の答えを手にすることはなかった。先生は「余白」を残してくれたのだ……。

手取り足取り教えてもらうのでは無く、自ら気づくことができると、その気づきを忘れることはない。

先生は手順だけ教えて、何も教えない。教えないことで、教えようとしていたのだ。
それは、私たちを自由に解き放つことでもあった。
…お茶をわかるのに時間制限はない。

気がつく時がくれば気づく。成熟のスピードは、人によってちがう。その人のその時を待っていた。

そう言うことだったの?!💡

1から10まで説明するのではなく、見て学ぶこと、そして自ら気づくことを促しているフラの先生が私たちにしてくれていることは…

先生が「自分で気づかなければダメなんです」と、ヒントをくれながら根気よく待ち続けていることはわかっていた。

「お点前の外にある」教えのように、私たちがフラの振付けの外にある教えに気づくのを待ってくれているのだ。

でも、なぜそうするかまではわかって居らず、「どうしてクラスの全員がわかるように説明してくれないんだろう」なんて思っていたけれど、説明されてわかることではないし、全員が同時にわかるタイミングなどもありはしない。

生き方と言うものには、それぞれの答えがあるし、それに気づく最適なタイミングも人それぞれ。

「日日是好日」を通じて、それに気づかせてもらえたことで、うっすら立ち込めていた霧が晴れたような気がした。


…厳格な約束事に縛られた窮屈な茶道の中に、個人のあるがままを受け入れる大きな自由がある……。
この世には、学校で習ったのとは全く別の「勉強」がある。…
…教えられた答えを出すことでも、優劣を競争することでもなく、自分で一つ一つ気づきながら、答えをつかみとることだ。自分の方法で、あるがままの自分の成長の道を作ることだ。
気づくこと。一生涯、自分の成長に気づき続けること。「学び」とは、そうやって自分を育てることなのだ。

茶道、フラ、生きること。

どれも厳格で、多面的で、難しくて、わかりようがないと思っていた。

でも、森下さんの目線を通して「自由なもの」と言う見方に触れたことは、とても大きな気づきとなった。

あるがままを受け入れる自由。
自分の「答え」を、自分のタイミングで見つける自由。

思いもしなかった。


フラを続けることの意義が見えなくなっていたタイミングで、「日日是好日」と出会った。

色鮮やかなドレスに身を包み踊るステージも何度か経験したが、それが目的では無いし、踊りの技術の向上も本質的な目的ではないと迷子になり、様々な事情も重なって、ここ2年はレッスンをストップしていた。

でも、ハワイアン音楽は好きだし、フラは自分を育ててくれるものであることには違いないから、私なりの向き合い方で、踊りたければ踊ればいいのだと、割り切ることができた。

会いたいと思ったら、会わなければいけない。好きな人がいたら、好きだと言わなければいけない。花が咲いたら、祝おう。恋をしたら、溺れよう。嬉しかったら、分かち合おう。
幸せな時は、その幸せを抱きしめて、百パーセントかみしめる。それがたぶん、人間にできる、あらんかぎりのことなのだ。

一期一会とは、そういうことなんだ……。


「茶道」発「フラ」経由で、絡まっていた糸がほどけるような爽快感がやってきた。

他者にも自分にも多くを求め過ぎず、自分の気づきに集中して、どんな日もいい日にしていこう♫

aloha & mahalo♪

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