多様性

絶望しない為に、わたし達は《多様性》を求める本能をもっている

「生きる」には2種類あります

ひとつは肉体が死なないこと
ふたつは精神が絶望しないこと

肉体も精神も、ちょっとやそっと傷ついても大丈夫
しかし限界を超えると、生きようとする意志が消えて死んでしまう
どちらか片方がダメになれば、もう片方も道連れとなります

変化に対応する「適応力」

生物の中でも、特に人間は「変化に強い」生き物です。
動物・魚・昆虫でも、進化した種族ほど変化に強い特徴を持っています。

例えばコアラは攻撃力も移動力もない弱い生き物ですが、毒素の強いユーカリの葉を主食とすることで他の生物との食べ物の奪い合いに巻き込まれず、肉体にユーカリの毒を宿し食べ物にされることもありません。

しかし、これは「いつでもユーカリの葉がある」という状況に依存した仕組みなので、天災や水不足でユーカリが無くなれば終わりです。

このような「何か一つの要素」に特化した仕組みに対して、犬やねずみなど雑食性の生き物は選択肢が豊富です。複数のトラブルに見舞われても、適応力があるので切り抜けることが出来ます。

常に状況が変化する環境において「適応力の高さ」は個体・種族・生態系全体を守る最強の特性といえます。

変化を必要とする「多様性」

しかし、適応力の高さは「変化に対応できる」プラス面だけではなく「変化を必要とする」マイナス面も持っています。

つまり、同じ状況・同じ環境が延々と続くと苦痛に感じてしまうのです。

毎日同じ食事は苦痛、ずっと同じ音楽は鬱陶しい、良い香りもやがて邪魔になる、変わらない景色に閉塞感を感じる・・・

ユーカリさえあれば満足&健康のコアラと違って、雑食性の動物(特に人)は様々な栄養を必要としますね。そうした栄養を得る為には、積極的に状況を変えていかなくてはなりません。
食事に限らず、あらゆる場面において、変化が必要な時には自らそれを求めて行動を起こすように、我々は「無変化に対して苦痛を感じる仕組み」を持ち合わせているのです。

それは「多様性を求める本能」といえます。

多様性を制限されると肉体と精神が病んでいく

心身ともに、安全や健康には多様性が不可欠。
しかし、時として「変化を拒絶する選択」をする場合があります。

食事でも、仕事でも、人間関係でも
変化を欲する気持ちに「ワガママ、感謝がない、悪い子」などの善悪・優劣ラベルをつけてしまう時です。

「もう少し耐えれば大丈夫、いつか良い方向に変わる、まだ我慢できる、みんな同じ・・・」

やがては思考停止に陥っていきますが、悪影響はじょじょに表れるので蛙の煮え湯となりがち。

気がついた時には「致命的な状態」となっている場合も往々にしてあります。
肉体では過労や病気、精神では鬱や絶望に陥ってしまうのです。

まずは個人の多様性を守ること

色々な食事は、個体レベルの健康を守る為
近視相姦を避けるのは、種族レベルでDNAを更新する為
寿命や出産率は、生態系レベルで周囲とのバランスを調整する為

変化の必要性はミクロ・マクロに存在しており、我々は常に様々な規模の多様性(変化の必要性)の中で、相互に生きて、生かされ、生かしています。

マクロ視点だけではミクロが犠牲になりますし、ミクロ視点だけではマクロが犠牲になります。どちらにしても、バランスの欠いた環境は生きる可能性を潰してしまいます。

他人の為、家族の為、会社の為・・・
人は幼少期から徹底的に「マクロの多様性」を優先するよう叩きこまれる。人類の一員・国民の一員・社会の一員・家族の一員として、それが正しい立派な生き方なのだと脅される。

しかし《二者択一、0か1か、白か黒か》という平面的な二元論は非生物的で不自然な思考。結局はマクロを支配する少数のみが自由と贅沢を搾取して、しわ寄せをミクロに押しつける歪んだ世界を生んでしまいます。

愛(合)のある関係性は、ミクロ・マクロを双方を生かして調和させることが出来ます。

愛はまず自己愛から始まり、自己愛同士の相互作用が縁となり、響き合う縁はすべての存在に循環する豊かさを生み出します。

退屈な忙殺でカラダとココロが悲鳴をあげている時・・・
どうか必要な変化を求めてください。
変化を求める気持ちを、変化する自分を、許して愛してあげてください。

生きてください。

自然栽培・オーガニック食品の生産者に還元します