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NVCの「初級」「中級」「上級」って何?

NVC(Nonviolent Communication)の学びの場づくりをする中で、常日頃、悩ましく思うことがある。それは「初級」「中級」「上級」といった捉え方についてのこと。何をもって初級なのか。何をもって上級というのか。上級を学ぶと「一通り学び終えた」ということになるのか。

社会的にわかりやすい指標があることによって、学びの進み具合を可視化し、共有することに役立つことは確かにあるだろう。

と同時に「ちょっとざわつく」気持ちが立ち上がることも事実で、それについての自分なりの理解を言葉にしていくことも、NVCと出会って以来、「生きてる時間=実践の試みの蓄積」と位置づけている一人として、ひとつ提示できることなのではないか。

そんな思いから、あえて言葉にしてみようと思いたった。

NVCを学び、実践するというとき、私が必ず「ここは共有しているよね」と感じとりたい要素がある。いわばコンピテンシーと言えるようなもの。試みに、「実践において重要とされることがら」を、自分なりの言葉で表現してみる。

  • 自分の感情が動いた源には、自分自身のニーズ(願い・大切なこと/人類に普遍的な価値)があると自覚している

  • あらゆる言動を「ニーズを満たそうという試み」として受けとめる

  • 他者が自分の望まない言動に出た時、「正す(教え諭す)」代わりに、「つながり(共感的に相手のニーズや意図に意識を向け、ニーズの層でのつながりをつくること)」を選択する

  • 「わからないこと(未知)」にこころを開き、純粋な好奇心で耳を傾ける

  • 「誰かのせい」という捉え方(敵のイメージ)を抱いた時、反応している自分に気づき、自己共感することによって、敵のイメージを変容(他者共感)する

  • 「解釈」や「決めつけ」に気づき、考えと事実(観察)を区別する

  • 「対立」を「相互のニーズが表現され理解される機会」として捉え、修復的対話を実践する

  • 自らの言動の「意図」と「インパクト」に自覚的になる

  • フィードバックを、人生を豊かにする機会として届ける・受けとる

  • 「Power Over」と「Power With」の違いに自覚的である

  • 構造的な暴力に気づき、自らの力を、抑圧構造の解体のために活かす

  • 共感への体感的理解を持ち、共感を体験的にわかちあう場を創造する

  • etc…

そしてこれらについての理解と実践についても、いくつかのレイヤーがあると言えるだろう。

  • 表現されていることの意味がわかる

  • 体験を通じた実感を得ている(学びの場の設定の中で / 目の前に出現する日常の出来事の中で)

  • 表現されていることが具体的にどのようなことなのか、実体験をもとに人に説明することができる

  • 表現されていることを、受け取り手が実感を持って体験できる場を創造することができる

それらは、自分が持つ実感と、他者から見えるもの・体験が異なることも多々あるし、「できるようになること」が「よい」という類のことでもない。ましてや「評価の固定化」を意図したものではない。出現している体験への気づきを言語化する(自分自身の体験に寄り添う・セルフアセスメント)、または他者とやりとりする(相互理解の手助けとしての視点・双方向性のあるフィードバック)という、豊かさと育みのための糸口としてのものだ。

私が知る限り、多くの「初級」「中級」「上級」などと呼ばれる講座の類は、「伝える内容(テーマやスキル面)」を中心に分類されているが、上記の観点から鑑みると、たとえ「上級」と呼ばれる講座を習得からといって、それらの体験的理解がいかほど進んでいるのかは、一様にははかり得ない。

あえて「上級」という名をつけるならば、集団の中にリアルに立ち上がった関係性の課題に対応していく、いわば「グループプロセス」を扱う力だとか、集団の中に修復的対話が可能な文化を育む力とか、場に立ち上がるあらゆるニーズに気づき、瞬時に対応していく力だとか、そういう応用力の観点を磨くものがあてはまるかもしれない。認定トレーナー候補生が時間をかけて育むのも、この領域にあると言える。

自分自身、年間にわたるいくつかのプログラムにガッツリ参加した後に「私はNVCを一通り学んできた」とある種の自信を持ったが、その後、とある場で、NVCにおける修復的対話の重要性フィードバックの重要性を知った後で「あれ?そんな体験、自分はまだまだ積んでいないぞ」ということに気づいたという体験がある。当時つけていた「ジャーナル(内省日記のようなもの)」をみると、自信をもって誤解してたことも、たくさんあった。

「べき・ねばならない」から「Life(人生・生命・暮らし)の豊かさ」への意識の変化。それを「自らの実感を伴う選択として生きる」こと。そのために必要な試行錯誤が山ほどある。私はあったし、今もそのさなかにいる。

「気づき」というのは、その人がその時にたっている視座から見える範囲のものしか感知できない。その瞬間にはそれが自己ベストなものも、実践をこころみているうちに、気づくと「ああ、そう見えていたのか」と、ほんの少しだけ、視座のひらけてきた自分に出会うことがある。そういう意味では「蓄積」と「ふりかえり」の大切さというのも、ここにあるように思う。その歩みの中に、学びの「あじわい」があり、そのあじわいを体験したからこそ、わかちあいの中から、コンパッションの質をもたらす余白が育まれるのではないか。

こんなことをあえて言葉にしたくなったのは、NVCというのが、感情的な体験や、人の大切にしてきた価値に触れる、深みのあるものであるが故に、時に繊細さに触れ、思いがけない痛みにつながることも起こりうるからだ。いのちを敬う気持ちから、他者と関わるということ。そのためにこころに留めたいことがある程度明示化され、共有されていることは、ケアの器を育む上で大切なことではないかと思う。

認定トレーナーという肩書きや翻訳書を出したことから、うっかり「専門家」に位置づけられがちだけれど、私にとって、学びは常に現在進行形だ。

『「学び」というものが自ずと生成される場は、どのように育まれるのだろう?』たとえばそんな問いを持って、今は実践に取り組んでいる。

学びに関わる情報がどのように整理され提示されると役立つものとなるのか。そんな問いからの、ひとつの考察のメモでした。