見出し画像

子育ての「失敗」

元役人の父親が、40代の息子を刺し殺してしまったニュースを見るたびに、一つの疑問が頭をよぎる。

“子育てに「失敗」はあるのだろうか”

***

今回のニュースに関する論調で一番引っ掛かっているのは、「息子さんと向き合いながら事務次官にまでなって……」と、加害者である親を擁護する意見だ。一つ二つしか番組をチェックしていないから、もしかしたらそうでない論調もあったのかもしれないけれど。

もしこの息子が本当に加害者となり、他者を傷つけるような事件を起こしていたら、この論調は180度違ったものになっていただろう。
母親が玩具を壊したという話。
有名中学を受験するほど勉強させた話。
父親が事務次官になるほど仕事に没頭していた話。
すべて「息子を加害者たらしめた要因」として、攻撃的に語られていたのではないだろうか。

だからこそ、今回の事件がすべて息子の人間性に問題があるかのように話されることに違和感を覚える。

加害者となるような、もしくは最終的に親が刺し殺さなくてはならないような人間は、最初から「そういう風に成長する子ども」として生まれてくるのか?と。

そんなわけない、と、すべての子育てをしている親は叫ぶだろう。

自分の愛する我が子が、将来手のつけられない大悪党になりますよ、と言われても、きっとそんなわけはない、自分が運命を変えて見せると、最後の最後まで力を尽くすのではないだろうか。

実際問題、環境による影響を一つも受けずに成長する人間はいないだろう。
だからこそ警察やマスコミは、犯罪者の家庭環境を洗い出し、その中に動機や、彼らを犯罪者たらしめた要因を探し出そうとする。

***

けれど、また、どんなに大切に愛情をもって子どもを育てていたとしても、我が子が突発的になんらかの過ちを犯すことも、ないとは言い切れない。

私自身、
「この子が誰かに傷つけられることがありませんように」
と同じくらい強い気持ちで、
「この子が誰かを傷つけることがありませんように」
と祈っている。祈るほかできることが見つからないのだ。

***

件の事務次官が、子育てに失敗した、と思っているわけでは決してない。
それはすべて結果論で、子育てに関してだけいえば、「成功」も「失敗」も、無責任な他者の評価に過ぎないと思うからだ。

力を尽くしてその子を愛した親を、一概に「失敗」なんて呼びたくない。
「失敗するんじゃないか」なんて思いながら、愛するわが子と向き合いたくもない。

答えが出ないまま、もやもやとした気持ちで、今日もニュースを眺め続ける。