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先日のSDGsに関する記事に少し関連性のある記事を書こうと思います。

ほとんどの人は「発達障害」とはなにか?を理解したらその理解したことを基準に子どもをその子の困りをどう支援するか?を考えると思います。それは当たり前と言えば当たり前なんですけど。でも、「その困り」が曲者なんです。周りの大人が不適応行動として止めさせたいことの多くは発達が順調に進んで行くと緩和されたり、改善されたり、軽減して行ったりするものです。それを待たずして「今すぐ、それ止めてくれへんかな~?」くらいの勢いで子どもを周りの大人が求める子の在り様に近づけようとしているように思えるのです、その支援が。

わたしが発達障害の子たちの支援を始めた時に、いつも同時に大切にしてきたのは「子どもの権利」についてです。その子の人格もきちんと尊重すると言うことです。それは頭ごなしに叱責したり、威圧的な態度を取ったりしないと言うことです。対等に評価すると言うことです。

「子どもの権利」において基準になるのが、1989年国連で採決された「子どもの権利条約」です。1990年国際条約として発効しました。 日本は1994年4月22日に批准し、1994年5月22日に発効しました。 もうずいぶん前に上手いことやってるけど、どれだけ実践されているのでしょうか? 日本は「子どもの権利」については諸外国と比べると非常に遅れていると思っています。もちろん日本の伝統、文化が邪魔をしていると言うこともありますが、それに固執して変わらないことが様々な社会課題を増幅させてきました。今まで水面下で見えないようにしてきていたものがここにきて一気に浮上し、様々な深刻な社会課題になって来ています。体育系クラブの体罰問題や児童虐待などはもっと前に考え、対策を講じてこなければならなかった問題だったと。障害児に関する様々な機会がなされてこなかったこともも見ていて辛かった。選択できる程教育環境の多様性を認められず、限られた世界でしか学び、生きることができないでいました。そして、それは今もあまり変わりない気がします。
療育も選べない。投薬治療も本人の承諾を得ないで行われていることがほとんど。そもそも投薬する必要があるのか?さえ疑問。そんなことをつらつらと書き連ねるといやいや意見もちゃんと聞いていると反論されるかもしれません。
でも、それって都合よく子どものことばを使っているようにしか見えないのです。

「この子が嫌がっているので止めておきます。」とか「家族の承認が取れないので止めておきます。」とか。
私たちからすると「人生が変わるかもしれない程のチャンスをそんなことで断念するのか?とりあえずダメ元で藁をもすがる気持ちで試してみたらどうだろう?」って思うのだけれど。

一方では子どもが嫌がっていても学習塾なんかには行かせたりするし、旦那さんには内緒で高価なものを買ったりする。つくづく人間というものは勝手なものだと思うのです。
だからと言って子どもの権利をないがしろにしていい事にはならないし、
親だからと言って、大人だからと言って 指示に従わせる権利もありません。

そんなことも考えながら、 子どもが自分の人生を切り開いていくときに必要な選択力や決断力の基盤となる経験や学びをさせておかなくのです。そうでなければ人間みな楽な方を選択してしまいます。大変だけれど、自分の人生を考えると今はこうしよう。頑張ろうと思える育ちが自分で選択し、決断できる力となるのだと思います。

私たち大人に取って都合の良い子どもを作りだすためのサポートは必要ありません。子どもの未来を拓くためのサポートが必要なのです。

わかりやすいユニセフの「子どもの権利」に是非、一度目を通してみてください。

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