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距離と価値-ヨーロッパで1年暮らして思うこと

海外で過ごす・暮らすことは全くもって特別なことではない。
ただ物理的に距離が隔てられているだけ、それだけなのに異国の建築、気づきなどをつぶやくとあっという間に通知が来る。
少し得意げになって、自分に価値があるかのように感じてしまうけど、私がすごいのではなくて、ただその物理的な距離の価値である。
もちろん、距離があることによって生まれる差を自覚したり、比べたりすることはそれだけで意味がある。

なぜか日本では海外旅行をすること、留学をすること、異国の友達をつくること、英語を話すことができることが何か特別なことのように囃し立てられているけれど、全然そんなことはない。

日本という国は、日本の内側と外側の壁をぶあつくして、内側からも外側からもフィルターをかけていることに気づく。

日本語でアクセスできる情報はとても限られていることがある。
例えば、建築の本の例で言えば、図面集や作品集が中心の本は翻訳されたり、時には原書が輸入されるけれど、読み物系の本はほとんど見かけない。
帰国して「あ!この本ヨーロッパの本屋さんで見た」と思うのは、大抵作品集の類で、その隣にあった面白そうなトピックの読み物やエッセイ集は全然見かけないのである。

一方で、外から見る日本もとてもミステリアスで不思議な国であるし、その実態はよくわからないからこそ、どこか惹かれるものがあるのだと思う。日本から来た、というとそれなりに興味を持ってくれるし、少なからず他のアジア圏の人に比べてプライオリティーがあるように感じられる。

この構造は鎖国していた時代から変わっていないのかもしれない。インターネットで世界中の情報にアクセスできるようになった現代でも尚。

でも英語から日本語に何かを翻訳するだけで価値が生まれたり、日本語から英語にするだけで一気に他の国の人からコンタクトが来たり、そんな可能性も持っている。そんな国、先進国では数えるほどしかないのではないだろうか。

でも別に、そんな日本が悪いということをいいたい訳ではなくて、距離の差は価値であること。外交にしても観光にしても、日本は自分のアイデンティティを活かしきれていない気がする。
どんなに日本が、特殊な地理環境に位置しているか、美しい環境や自然を持っているか、1つの言語を共有する単一民族が1つの国に住んでいる特殊性、だからこそいろんな民族が共存するための環境が整っていないこと、日本語の豊かさetc. たぶん他の国を模倣するだけでは解けない問題も山積みだし、一方で圧倒的な個性があると思う。

20代後半になってヨーロッパに留学して初めて気づいたこと、少しずつ書いていけたらと思います。


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