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スターバックスで妻が綺麗に見えた話

昨年末のある日。
少し時間ができたので、妻と近くのスターバックスに行った。
店内は仕事納めの後でもあり、すいていた。
それぞれ、好きなドリンクとケーキを頼む。
その日は、窓際のソファー席に座った。

時々、お互いに相手のケーキをひと口すくう。
ドリップコーヒーを飲み、背もたれに体を預ける。
時々交わす言葉は、後から思い出しもしない他愛もないものだ。

その時、大きな窓から青い空を眺めながら、僕は幸せだなあと思った。
人生の中の小さな小さな点のようなひととき、こうして妻とふたりで、ゆっくりコーヒーを飲んでいる。
そんな自分が限りなく幸せに思えた。
世界には、こんなコーヒー一杯をゆっくり飲めない人もたくさんいるはずなのに。
僕は、何を憂うることもなく、妻とふたりで美味しいコーヒーとケーキを味わっている。
幸せだ。

しかし…

こんな時がずっと続けばいいのに…

そう思った瞬間、今までの幸福感が音もなく消え去った。砂浜に書いた「幸福」という文字が波に洗い流されるように。
そして、見ていた風景から色彩が消えていき、味気ないモノクロに変わっていった。

こんな幸福な時が続くことはないんだ…
そんなことはあり得ない。
このひとときが幸福だとしても、一生このまま座り続けていられるわけもない。
日常がおいでおいでと待っている。

そうか…
どんな大富豪でも、どんなに人生が思い通りにいっている人でも、どんなにイケメンでも、どんなに美人でも、一日24時間、ずーっと、自分は幸せだなあと思い続けることなど不可能だ。

そんな人たちでも、幸福を感じるのは、己の境遇、環境に思いを馳せた瞬間、そのひとときではないだろうか。
そうであれば、さっき僕が感じていた幸福感と何が違うのだろう。

もちろん、大富豪は幸せそうだ。人生が思い通りにいっている人は幸せそうだ。イケメンも、美人も幸せそうだ。
いやいや、僕のお隣さんも幸せそうだ。
でも、彼らが本当にそう思っているかどうかはわからない。そもそも、それは僕の幸せではない。

幸せとは、その人だけのものだ。

あの幸せの国、ブータンの人々よりも、我々日本人ははるかに豊かな生活を送っているだろう。幸せが環境や境遇で決まるのならば、日本人の幸福度はブータンの人々のはるかに上をいくはずだ。

幸せとは、環境や境遇のことではない。
与えられた、あるいは勝ち取った環境や境遇の中で、ふと立ち止まり、ふと振り返り、その瞬間に体の芯のようなところ、多分、ココロってこのあたりにあるのかなと思えるようなところから、湧き上がってくる感覚。
流れ続ける時間の中で、少したゆたってみた時の感覚。
幸せとは、人生という短くも大きな川面に、どこからともなく流れてくる小さな花びら。
そうではないだろうか。

その花びらを上手くつかめた時、人は幸せであるのだろう。
そして、その花びらをどれだけ多く集めるかで、幸せな人生だったと言えるかどうかが分かれるのかもしれない。

いつ流れてくるかわからない幸せの小さな花びらを見逃さないように生きていこう。

そこまで思いいたった時、再びスターバックスの風景に彩りが蘇り、妻がいつもより少し綺麗に見えた。
ここにも幸せの花びらが落ちていた。

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