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養生と出会う

50歳になったある日、私にとって衝撃的な出来事があった。
私が大好きな歌手のバックバンドでドラムを担当している方が亡くなった。
享年56。
その歌手も偉大な方だが、そのドラマーも音楽界では有名で超一流、胸に染みるドラムを叩く人だった。

私個人にとっては衝撃だった。
ファンとして応援している人で私と同年代、この前まで、ライブでは普通にプレイしていた人だった。

人って一瞬先は分からないものだな、もっとやりたい事もあっただろうに。

そのとき、切実に、強く思った。人の一生は一度しかないのだ。
やりたいことを得心するまでやり抜きたい。時間は二度と戻らない。
そのためには、とにかく健康が基礎になるのだ、と。

また、残された人生の時間も意識するようになった。
いつまで生きるか分からないが、その終わりの瞬間まで前へ進み続けたい。それには「健康で、はつらつとした毎日だ」と。

前回に書いたような最悪の生活習慣のせいで、高血圧に加えて酷いメタボだった、
私は男性としては身長は低い163㎝。であるが、体重は69kg、お腹周りは96cm。これは明らかに不健康なので改めなければ。

まず、運動と食事。当たり前であるが。
単純に、運動が先かな?と思い、ジョギングから始めた。
最初に走った日のことは忘れない。

50mくらいだろうか、、、それくらいで激しい息切れと激しい動悸。
心配性だった(今は違う)私はまた「死ぬかもしれない」と思った。

自分に愕然とした。いくらなんでも、ここまでダメだったのか。

そう思ったとき、なぜか心は折れず、悔しさと情けなさ、少しの闘争心が湧き出した。
確かに不摂生の結果、不摂生の成績表が、この50mで証明された。
このまま変わらず現状に目を伏せて誤魔化すのか、大したことが出来なくとも、せめてジョギングを長く続けて、気分だけでも晴れやかになれないか、、、

走るのが疲れるのなら途中から歩いてもいい、タイムは無視。とにかく彼処の交差点まで行って帰る。ただし、自分への絶対の約束は「習慣づける、いつまでも続ける」スピードアップとか、どうでもいい。毎日とか、しなくてもいい。

とにかく「続ける」事。

緩いルールで、自分にプレッシャーをかけず、サボりたい時は遠慮なくサボる、
ただし「続ける」。

それから4年後、フルマラソンを完走した。
何も自分に課題を貸していない。追い込んでいない。人と競っていない。
続けているうちに単純に「走ることが出来ている」自分が誇らしく、また客観的に嬉しがって走っている自分を滑稽だ、と楽しむことができるようになっていた。
初めて走った日から今年でとりあえず10年になった。

運動はできるようになったが、メタボは、、、まだ少しメタボ。
フルマラソンを走れてこれかよ!と思った。

よく需要と供給という経済用語があるが、体にとって、例えるならば需要は運動、供給は食事と言えるのではないか。
今度は供給である食事に注目した。

少し長くなってしまったので、今回のテーマとすべきだった東洋医学の話から次回はスタートしてみよう。



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