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Review of the first half of 2023/第三の道を目指す

すでに下半期なのだけど、お盆なので今日あたりで振り返りをと思い書いている。追われながら過ごしてきているからなのか、現実や日々に今はどこか何か物足りなくもある。しかし、ここ数年だと圧倒的にフロー状態の日々が多く、メンタルもかなり快調だった。周りの人々にとても感謝である。

※半年前の振り返りも置いておく。


研究室

研究室での数ヶ月の日々は、これまでの大学生活の中で最も充実した学びの時間と言えると思う。研究室メンバーとのゼミでの議論や何気なく過ごす日々も、似ている属性だからだろうかとても心地よい環境だった。建築史を丁寧に学ぶというよりも、建築史的な時空間の横断の仕方や、物事を結びつけて発想したりすること、世界の観察の仕方や発見の方法、社会への姿勢というものを改めて学ぶことができた。

時空間を超えて発見する姿勢

これまで発想や行動の起点を、内発的で感傷的なものを探り当てるか、もしくは社会的事象に対して責任感を意識すること、どうにかして知性的に振る舞うことをある種の癖のようになっていたのだろうと思う。何かを成し遂げることや何かを表現することを内側に求めすぎて、とても苦しかった気がする。数ヶ月程度、どっぷりと中谷先生や中谷研なアプローチや大事にしていること(個人的な解釈だけれども)をなんとなく身体で理解していった結果、その癖が良い意味で抜けてきているように思う。

時空間に身を置いてみること。唯物的に事象を見つめて、時間を心と身体で行き来すること。発見や新たな視点を持つことは、あらゆる技術や理論を緩やかに変えるのかも知れないと思いながら観察と構築を続けてゆくこと文明以上に文化を見つめること。古代人や歴史の中の記述行為や技術・工夫に尊敬の念を持つこと。今の時の音を聴くこと。自分も生き延びるためにまずは今に対して工夫を凝らすこと…

まだ何もわからないけど魅力的、私がそう信じて仮説とアイデアを持っているから。そして何より私が取り組むことを楽しんでいるから。その先には社会や世界にとって最高の発見がきっとあるはずだから

発見する楽しさや私が楽しいということを大事できるようになって、本当に良かった。ほっとくと死んでしまうのではないか、だからなんでも上手にならないといけない、人並み以上に努力しなければならない。ではなくて今楽しいと思えることを真正面からやろうと思えるようになったのは大きい。

プレ疾走調査_畑のカエル
プレ疾走調査_畑の景色
プレ疾走調査_農舞台

解いて築く-解体建築史-

解築学もやってきた。4月からの数ヶ月で1番考えてきたことかもしれない。

その実態がどうか、内容があるのか、批判も批評も僕になら言えるだろう色々な人に聞かれるし指摘される。概念を立ち上げる、そして美学を作り上げようとしていることをなかなか理解されないことは沢山ある。即時性ある知識や論理を求める。遠い射程であるから、今すぐには答えというものは出ない、答えの出ない状況を楽しめなければいけないのだけど、大学や建築家は概念や考え方を作り上げる場所ではなく、享受する側となってしまったのかとつ違う。仕方のないことなのかもしれない。

極端に言えば「モノを作り続ける」という偏った今の人間の欲望の在り方から、私たちは少しづつでも解放されないといけないと思う。構築の技術や実現の力のみを強めるのではなく、あるものに可能性を見つける発見の目、そして組み合わせやカスタマイズのあり方。壊すこと、崩すこと、制限や事物にある文脈を楽しむこと。近代の技術的進歩主義とは少し異なるような世界の構築方法を見つけていかないといけない。その先を描く可能性が解築にはある。これについてはもう少し頭が整理できたら記述しようと思う。

前期に読んだ本/一部扱った本リスト

時のかたち(SD選書270)
代謝建築論―か・かた・かたち
工業化への道(渡辺保忠)
建築設計技術の変遷(中川武)
動く大地、住まいのかたち――プレート境界を旅する中谷 礼仁
鋼の構築様式 中谷礼仁(文)+松田法子(図)
福嶋亮大『復興文化論』
レベッカ・ファーガソン『災害ユートピア』
ケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌』
『今和次郎集〈第4巻〉住居論』より「仮住まい考」
『帝都復興と生活空間―関東大震災後の市街地形成の論理』(田中傑)
『アメリカ大都市の死と生』
『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転成: コスモスとしてのカンポン』
『路上観察学入門』

生きものの巣の建築史

2023年の前期、自分の好奇心はまたnatureに戻っている。
10代の頃からの疑問に対してなら、今もすぐに手が動くみたいで、こういう初期衝動のようなものはかなりの年数持続するようである。

生きものの巣はどうも不思議なもので、彼らの巣を僕らは人工的なもの(自然作用ではなく生まれたもの)と思わないことが多い、環境の中の事物連関の中と認識している。まさに自然の中のものと見なし、大地との関係を認めている。
観察や研究の整理を続けているとヒトの建築も本来そうだったのではないか?近代建築が本当に異常であるのではないか?という想いは日に日に強まっている。これをどう社会的に意味ある、現在に対して実効性のある視点にするかは悩みどころだけれど、生きものの巣を丁寧に建築史的に捉えてる先行研究は今は見つかってないし、この発見が将来に生かされることを願って、あと2ヶ月ほど研究をしたいと思う。

灼熱の都市、季節のない世界、無機質で愛のない現実空間や逃避的なデジタル空間がヒトという生きものの建築の未来になってはとても残念だと思うから、少しづつでも頑張りたい。生きものに学べることはまだまだある。

生きものの建築学(長谷川尭)
建築する動物たち ビーバーの水上邸宅からシロアリの超高層ビルまでマイク・ハンセル

↓リサーチ用のNotionは全てオープンソースとしています。

その他、生環境構築史やそれだけではなく色々なことを学ばせてもらって、いつかちゃんと恩返しをしたい。

プロジェクト

今あるアイデアや考えを信じて形にして世に出すということに対して自分の中の柵が壊れたと思う。色々とプロジェクトを仕掛けてみたりして、その何個かはようやく形になっている。気の合う仲間とこれがいいね!と見えたものは創造的行為の中でかなり最強である。作らないで貯めて忘れるなら、ダサくてもどんどん作った方が良いし、人に話したほうがいいというのは大きな学びである。

絵文字写真機

写真家や写真をやっている人たちと共作した、絵文字のフィルターが入るプロトタイプwebアプリ。

発想としては、昨今の「メディアとしての写真」が強すぎること、つまり写真というイメージが全て先行して、解像度や分かりやすさのベクトルに触れすぎている、分かりにくさを補填するために文章も入れてしまう現状をどう打破した写真のあり方を作るか?を考えたかった。なのでその反対として、漢字や絵文字の抽象性を評価し、文字的写真を絵文字としたとき、写真的絵文字という表現も可能であるのでは?と考えて制作した。

どこでも写真を撮ると部首が入ってしまうので、部首と写真の関係性を解釈しなければならない。または部首に対して身体的に応えたり、現実のものと組み合わせることも可能である。おそらく漢字の発生はこのように生まれたのではないか?と想像できる。

このリンクからぜひ遊んでみてください。
https://emocamera.com/emocamera-app/

都市農業プロジェクト

都市農業のプロジェクトはかなりディープにやってきている。
何個かは仕事になりそうで、何個かは大きく滑った。

コンビニエンスストアに対しての提案はかなり評価をもらうことができて、むしろコンビニというビルディングタイプを今後どのように変えていくべきなのか?を建築デザインのアプローチで解いていくことになりそう。まちづくりコンペティション等ともつながりつつあるので、世田谷区とも上手く絡めたプロジェクトにしたいと思う。

都市農業×コンビニエンスストア

エディブルランドスケープ

関連して、地域コミュニティや市民団体とのコラボレーションも少しづつだけれど実現まで漕ぎ着けることができた。
思えば、冬に1人でみかんを畑に積みにいく家族向けのイベントに参加し、とても不審がられた(多分真っ黒な服だったのもある…笑)のが始まりである。そこから半年で関係を構築しながら、アイデアベースでご一緒させていただくことができた。動いてみるというのは大事であり、デザインの仕事は待つ受託だけではなく、上段をいかに積み上げていくかが大事だと思う。

福祉拠点の内装はいい感じになってきている。地域の建築家の方々や国士舘の建築の先生方とも交流を持つことができた。

地域で何かするというのはとてもいいなと思う。情で繋がるし、色々な世代がいるので世代を自分が自ら繋いでいる感覚を持てる。そしてビジネスの世界とは違う多様な世界と地縁的ルールがある。自分はこういう地に足がついた、現場性のある動き方がどうも好きらしい。

一緒にやると色々なことが見えてくる。
自分よりも遥かに若い子達が沢山いること。大学入学直後の若者は、生き方に悩んでいること、ひと回り上の人たちは街に関わり続けて建築設計をしたり、社会インフラや行政が担えないものを自助的に非営利として回していること。お爺さんお婆さんも部屋から出て、世話を焼いてくれたり、お店をしたりしている。ネットやSNSには見えない関係性があること。

そして、僕らの世代だけすっぽり街への関与として抜けていること。どこに行ったのかわからないけど、都市や町から「積み重ねながらもらったもの」という認識を得るのは難しいのかも知れない。コロナ渦の時はとても地域にお世話になったので、等身大の範囲でこれからもやっていけたら良いなと思う。

三角プランター

PROJECT NESS

都市のLikeとNess(=らしさやよさ)を再統合するNESSプロジェクト、京島の作品グローバルコンペでファイナリストまで残ったり、プロジェクト自体もとてもユニークなものとして仕上がってきている。

自分はやはり都市と近く生きてきた。渋谷や新宿、池袋…山手線内の西側が長い間生活圏だった。だからこそ、地方ではなく都市に対して強い課題意識を持っているのだと思う。生成AIをどのように社会を変えるか?というよりも、今の開発モデルやクリーンナップのあり方に対して強い疑問を持ち、これに対して生成AIという技術ができることはないか?と考えている。

京島LoRA プロジェクト

アカデミアや都市計画の人たちがまちづくり〜や論文や学会発表、海外視察をしている間に都市は無惨な姿に変わっている。建築家が自邸を建てながら都市のことを口と文章だけで論じている。都市コンサルに行きながら保身をしながら口だけ動かしている…
学歴があっても問題に盲目的でそして保身的であるのなら、とても情けないなと本心では思っている。彼らの知性の使い方が柔軟でないことに対して苛立ちも覚えている。その度にミケーレの言う「知性をどのように使うのか?」という言葉を思い出す。

これから作成していくNESSのアプリケーション

NESSはこのような苛立ちに対してソリューションを与える道具になりうると思う。都市のらしさや良さ、削除されうる都市の様々なベクトルを保存していくアプリケーションとして、大きなポテンシャルを持っている。これは、近代の開発主義に対してプロダクトで抵抗する一種のデモである。

その他

お手伝いさせていただいている数社の会社関連でも色々なことをした。
ようやくハードなことにも携わることができて学び深い。とにかくデザイン会社としての仕事の生み出し方や実行力、クオリティを作るための速度感、チーム力を身体で学ぶことができたと思う。具体的な内容は書けないけど、アカデミックな大学という場所での学びと実務的でビジネスにおけるデザインのあり方の学び…この両輪で2年程度同時に回すことができていることが経験不可としてとても貴重なものになっているように思う。

あとは色々なバイブスが近い人たちとも出会えたり、大切な出会いがあったり、久々な再会があったりと…本当に良い上半期だったと思う。

考えていること

所有をやめること

1年前と比べて、現実や現在、そして明日や半年一年後に対してのぬぐいようのない不安のようなものや無償な自分への苛立ちがほとんどないなとちょうと昨年のnoteを見て考えていた。

その代わり、今にとても感謝するようになった。時間ほど不安を生み出す概念はないと思うのだけど、現在に対して感謝を持ったり、現状の自分で最善で全力のものを世の中に記述することを増やせるようになったからだろうか、今に集中すると、時間はそこまで気にならなくなる。一年後、数年後に期待して今の生や今のアイデアや直感性を否定したり疎かにする方が問題である。

自分はできる限り(秘密保持等を除いて)オープンソースにするように心がけている。知り合いもプロジェクトも考えていることもアイデアも…個人で経験や考え、アイデアや技術を所有することをやめていきたいと思っている。所有を維持せず、エントロピーが高い状態に身を置き続けないと僕らは年齢を重ねても、生の重さに押しつぶされてしまうと思う。もしなんらかの理由で死んでしまったとしても誰かが繋いでくれるだろうと思いながら、その緩やかな環境を作りたい。

だから自分の今には大したものが残らないので、それはそれで市場経済の理論ではとてもやばいのだけど笑
所有をやめてオープンにした先の誰かがきっと助けてくれるんじゃないかなと思う。助けてくれる社会であったらいいし、今やっていることが正しいのだと思えるように日々を大事にしていきたい。

第三世界を目指す

本当に心の底から働きたいところがない笑
18-24歳まで実質的には働きながら学んできたので、社会との境界線もよくわからない。かといって計画的なものもない。しかし自分が今できることで生き延びないといけないし、今できないことや予想外のことももっと吸収したいなと思う。

まだちゃんと言葉になっていないけれど、来年以降は第三世界をフィールドにすることを指針にしてみたいと考えている。または第三の道としての生き方である。このことを考えていると、今の些細なことも楽しくなれるし、24年間のこれまでやってきたこと生きてきたことの文脈とがっちり繋がっている気がしている。

第三の道(だいさんのみち、英語:Third Way)とは、通常は従来の2つの対立する思想や諸政策に対し、両者の利点を組み合わせた、あるいは対立を止揚した、思想や諸政策である。

wiki

「第三世界」は差別的表現で「発展途上国」が正しいと教わったことがある。しかし明らかに後者の方が差別的である。 「第三世界」という言葉が生まれた時代には、第一(資本主義)でも、第二(社会主義)でもなく、第三の道をゆくという含意が込められていた。 ∴第三世界を目指せ。

https://twitter.com/rhenin/status/1560947608398360577?s=20

ずっと平和と建築に興味を持っている。ガウディは100年前から究極的に自然を築こうとし、自然の観察と宗教に委ねたとも言える。平和の建築は、人類の科学技術的発展だけでは見えてこない、技術のおごりや経済性から脱して、もう少し感性的で文化的な態度が必要になると思う。

人と人を繋げたり、わかりあうためには技術ではない、空間や身体性、言語などの身体メディアに注目する必要がある。ヒトの差異を超えた身体的な開きが生きものとヒトにはあることを認識できたとしたら。歴史を蔑ろにはできないけれど、それを乗り越えることができるとしたら。人類が超えることのできてないものは、宇宙に行くことでもなく、現世に十分な平和を築くことができていないことだと思う。

そのための空間とはどんなものになるのだろう。運動や血を流さずともわかり合うことのできる空間や場所とはどんなものなのだろう…おそらく第三世界にはこの答えがあり、余白があるだろう思う。
そんなことを考えるには日本ではないことは確かなので、ちゃんと!建築学を納めて下半期からは場所も生き方も含めて「第三世界」「第三の道」を目指せたら良い。対立構造を繋ぎ合わせるように平和を建築できたら、超かっこいいな。

終わり、2023年下半期も頑張ります!


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