見出し画像

救えるのは、誰。

今、目の前で辛い思いをしている人がいるとして
その人を救えるのは、どんな人なのだろう。

全く同じ経験をしたことがある人。
似たような経験をしたことがある人。
同じ経験はしていないけれど、別の事でとても辛い思いをしたことがある人。
知識も経験もなくても、「力になりたい」と思う気持ちが人一倍強い人。
いま、元気で明るい人。

“共感”なのか、“寄り添うこと”なのか
または
“別世界へ連れ出すこと”なのか。


“似たような”感覚の人


自分はどうだろう…と、考えてみる。

“経験”は、“感覚”を育てると思う。
自分と似たような経験をしたことがある人は、感覚も似ているな、と感じる時があるからだ。


中高生の頃。

身の回りにいた友人は主に、“気の合う”友人だった。

「初めまして」と出会ってから、

「私もそれ好き!」だとか
「私もそう思う!」と言ったやりとりを重ねるうちに、共通点が増えていく。

そうして、似たような感性や、感覚、価値観を持った人と、自然と仲良くなった。
そして、似たような経験値を持っていることが多かった。


最初の共通点を見つけた時というのは、とてもワクワクするものだ。
「この人とは、もっと仲良くなれそうだな」と、相手と自分との関係性の発展をこれからも望むのなら、なおさらだ。

今でも
出会って日が浅い人と、初めて共通点を見つけた時には、少し嬉しくなる。
相手に興味が湧いたり、自分のこともわかってくれるような気がするからだろう。
そして自分の理解者が一人でも増えたら嬉しいな。と、どこかで思っているのだろうか。

今でも嬉しいくらいのことだ。ましてや10代の頃など、
「この子は後々、親友になるかもしれない」と、運命のように感じていたかもしれない。
まるでディズニー映画『アナと雪の女王』に登場するワンシーン。
一緒に「サンドウィッチ!」という瞬間のようだ。


共通点の多い人とは、一緒にいて楽だと思う。

言わなくてもわかってくれるところがあったり、
すぐに自分の感覚を共有できる。
楽しいことも、嫌だなと感じたことも、すぐにわかってくれる誰かがいるというのは、とても心強いことだ。

しかし、ほんの少しの感覚のずれが生じた時。
「あれ?」となった時のショックもまた、大きいような気がする。


では、辛いことがあった時。

相手に話してみて、「私もそれ、わかるよ」と言われる共感一つにしても。

本当に伝わっていて、心配してくれているな。と感じる時と、
きっと、そこまで重く気にかけていないな。と感じる時がある。

「こうした方がいいよ」とアドバイスをもらえたら、
素直になるほど。と思える時と
今はアドバイスは要らない。と感じる時がある。

そしてそれは、相手も同じ経験や思いをしたことがあれば
その経験を糧に、なんとか生かそうと懸命に話してくれているのは、他でもない、私のためであり、相手の思いやりだと思う。

自分の状況にもよるけれど
相手の思いやりを自分が素直に受け止めることができなければ、自分自身も救われないし、相手の思いやりにも応えることができない。

もちろん、素直に受け止められたら、
「ありがとう」と心から思える。


相手のことをよく理解していれば
「そういうところあるよね」とか「そんなことだと思ったよ」と、軽く流せるかもしれない。

しかし、理解が足りなければ
「そういうところ、あるんだ…」と、自分の中の人物像が少し崩壊してしまうこともあるだろう。自分の価値観と外れて、しかも自分が辛い状況であるとなれば、なおさらだ。

全く同じ人間などいないと、頭ではわかっているはずなのに
「同じ感覚ではなかった」ということに、少なからずダメージを受けてしまう時がある。

きっと、誰しも自分の理解者を探している。
そして相手も同じ感覚だと過信していたことによって、わかってもらえなかった時の衝撃がより大きなものに感じてしまうのではないだろうか。

辛い時ほど、大きく。

“正反対”の感覚の人


…というわけで、大学時代。

私は、自分とは“正反対”だなと感じる友人との付き合いも増やしてみた。

すると、新しい考え方や予想外の言動が新鮮な日々。

自分には無いものを持っている。
自分では思いつかない発想がある。

たったそれだけで、共通点の多い友人とは別の魅力に圧倒された。


そして、ここでも同様に、辛いことがあった時。

正反対の性格である友人は
「大丈夫?」という心配や、「私もわかるよ」という共感はなく、
むしろ辛い思いをしていたことに気づかないことすらある。

しかし、当然のことながら、友人は私の持つ感覚とは違う。

私だったら気づくかもしれない些細な友人の変化に
気づかないか、もしくは気づいた上でいつも通りに接する友人。

その違いに、正解はない。

この時は、そのいつも通りな感じが、むしろ救いになった。
辛くて気が重くなっていたところを、まるで何事もなかったように普段通り、元気に接してくれた友人に釣られ、自然と少しずつ元気が出てきたり、心が軽くなったりした。

しかし、その後、こじらせて大きく体調を崩した時。
そのクールさに、「もう少し心配してくれたら嬉しいな」と感じたこともある。


結局、私の場合は。

“似たような”感覚を持ち合わせている友人に、
“共感”したり“寄り添う”ことで救われたこともあったし
“正反対”の感覚を持ち合わせる人に、
全く違う角度からのアプローチによって救われることもあったのだ。


救えるのは


共感できるからこそ、救われることもある。
共感できなくても、「力になりたい」という思いは伝わる。
しかし
思うように伝わらなくて、ショックを受けることもある。

反対に、
正反対の性格だからこそ、救われることもある。
しかし
正反対の性格だからこそ、わかってもらえなくて辛くなる時もある。


自分と“似ているところ”と、“違うところ”。

どちらも、楽しいことには繋がりやすい。

「私もそう思う!楽しいよね!」とか
「知らなかった!もっと教えて!」というように。


しかし、辛い時というのは。

「あれ?」と思ったり
「やっぱりわからないよね…」と思ったり。

自分が思っていることは、
相手も思っていることかもしれない。

全く同じ人間などいない。
違いがあって当然だし
違いがあるからこそ、色々な人と、色々な関係が築ける。


だからこそ、
目の前の、辛い思いをしている人を救えるのは、

“似たような”感覚を持った人が、共感したり寄り添うことなのかもしれないし、
“正反対”の感覚を持った人が、別世界へ連れ出すことなのかもしれない。

きっと誰であっても
「力になりたい」という真剣な思いだけは
相手に届くと信じている。

「助けて」という声が聞こえる相手になら、絶対に。


町田そのこさんの『52ヘルツのクジラたち』を読んで、
愛について、友情について、救いについて…色々考えてみたけれど
感じたことを正しく言葉にするのは、やはりとても難しい。



2023.12.16


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?