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【小説】そこは、ミルクでビターなホワイトチョコレート

 別れようって言ったら、ちょっと焦った表情になるあなたが好きだった。驚きと迷いと悲しみと落胆。ルービックキューブの面をかちかちとひっくり返すようなあなたの目まぐるしさを見て、ようやくあたしはまだ愛されていると確信できる。

 真夜中のファミレスで、穏やかな春の日の公園のベンチで、車の助手席で、あたしはどうしようもなくその衝動に駆られた。

 あれはね、病だったの。

 あなたを困らせることでしか、あなたの愛を感じられない病。だってあなたが悪いのよ。いつだってあたしがいなくても平気なふりをして、あたしの前をずんずん歩いていくあなたが。

 あなたは決まっていちばんに「なんで」と言った。あたしに尋ねるというよりも、自分への問いかけのように聞こえるものだからちょっぴりおかしかった。戸惑いに揺れる瞳がたまらなかった。堂々としているようでいて、自信がなかったのよね。自分自身にも、あたしとの愛にも。

 言葉にするのが苦手なあなた、不器用なあなた、不安にさせるのが上手なあなた。生まれたてのうさぎみたいに無垢で弱々しくて、なんて頼りない。だからあたしが守ってあげなきゃいけないの。うさぎは寂しいと、死んじゃうんだものね?


 ミルクチョコをぱきぱきと割り、湯煎しつつゆったりとした調子で混ぜる。無心で右腕を動かしているうちに、とろりとした感触が肩にまで伝わってきた。その手応えも次第になめらかな揺らぎへと変わる。そうしてできた混じりけのない液体を、ボウルからひとすくい、ふたすくいと銀色のカップの中に注いでゆく。

 一度固められたチョコレートを溶かして、再び固めるだなんて馬鹿げた作業。幼い頃からよく思っていた。だけど、今はそうは思わない。一度溶かしてやらないことには、チョコレートは思い通りの形になってくれないのだから。

 このまま、並々と注がれたチョコレートの沼で溺れてしまえたらいいのに。甘くて苦くて、時には胃もたれするほどのくどい甘みに溺れ続けていたい。その願いが叶わないことは知っている。ひとたび冷蔵庫に入れてしまえば、チョコレートはゆるく芸術的に形作られていくのだ。ハートのかたち、くまのかたち、それからうさぎのかたちへと。

 さて、あとは待つだけだ。彼の帰宅予定時刻と、チョコレートが固まりきるはずのタイミングは、完璧に一致していた。


 そろそろ冷えきった頃かな、と思う感覚は外さない。冷蔵庫を覗くと、つやつやだった表面に薄く霜がかかったような、落ち着いた風情のチョコレートたちがお行儀よく並んでいた。しかし彼の帰りの兆しはない。きっと今年も職場の女の子たちに囲まれて、大量のチョコレートを抱えて帰ってくるのだろう。せっかくなのでラッピング用の袋を出してきて、いくつかのチョコレートを丁寧に包んでみた。せっかくだから、ね。

 それから何十分経った頃だろう、慌てた調子で鍵を開ける音がして、いつもより高めのトーンの「ただいま」が響いたのは。

「おかえり。遅かったのね」
「いや、今日バレンタインってことすっかり忘れててさ。連絡できなかった」

 ぱんぱんに膨らむいつもの鞄と、それに加えて小さな手提げ袋に無造作に詰め込まれた愛らしい包みの数々。予想していたことだけれど、心なしか満足げな高揚感を漂わせる彼の佇まいに、僅かに心の棘が呻く。

「……こんなにもらってるんだから、これ以上はいらないよね?」
「は、そんなこと」
「冗談だよ。ちゃあんと用意してまーす」

 とびきりの笑顔を貼りつけて、背中に隠し持っていたハートとくまとうさぎを目の前に差し出す。その陳腐で安っぽい包みは彼の手の中にあるものたちと何ら変わらず、あっという間に埋もれてしまいそうな儚さを備えていた。

 だからあたしは、あたしにしか吐けない呪いで、あなたを溶かして守ってあげるの。

「ねえ、別れよっか」

 甘くて苦い底なしの沼に、どこまでも溺れて沈んでしまえばいい。それからちゃんと固めなおして、ふたりで美味しく召し上がりましょう。


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一日遅れのバレンタイン小説でした。🍫

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