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友達について考えてみた

すごい素敵な企画を見つけて、

でも年齢制限で行けないので、テーマを拝借して、ひとり哲学?自分の場合を振り返ってみました。

友達とは何か?改めて考えると、よくわかりません。辞書を引くと「一緒に何かをしたり、遊んだりして、気持ちの通い合っている人」とあります。私には今、そういう固定の人がいません。小中高大、その時々で一緒に出かける子はいたけれど、今も続いてる人は一人もいない。アドレス帳に残っているのは、社会人になってからの同期が数名。でも、退職してからは会わなくなった。飲み会は、情報交換という共通の利益があったからやっていたわけで、決して気持ちが通い合ってたわけではないと思う。すごくうわべの関係だった。

素の自分を見せれる、気を遣わない関係が、友達なんかな。それだったらネット上で時々ある。けどわかんない、向こうは気を遣ってるかもしれない。なんか好き~って、私が勝手に楽しくなってるだけかもしれない。とにかく私は、ひとりよがりが多い。そして、そんな自分を密かに誇っている。そら友達おらんわ。

自分の、クセつよな部分を知らなかった頃、いわゆる一般的な「良い人」をやって「良い友」に囲まれていれば幸せに過ごせると思っていた。自己啓発にはまっていて、異業種交流会とかで名刺交換をしまくっていた。私は「この人といると自分の格が上がったように思える人」と好んで付き合った。あなたのこと大事にするので私のこと優遇してくださいね、みたいな暗黙の約束を求めた。流行の化粧やお世辞をがんばった。

そこまでして何が欲しかったのだろう?たぶん、いい感じに勝ってる私、というポジションだ。なんかひたすら、見せるための人生をやっていた。誰に見せるって、一番は自分だ。もっと魅力的に見せて、私に価値を感じる人を増やさなければ、ただのしょうもない女では死ぬ、という感覚があった。私からしょうもなさ、脆さ、醜さを消して、完璧にしてくれる人と出会いたい、という想いもあった。

本当は、私のしょうもない部分は、思いきり外に出て遊びたがっていた。正しく着飾り、正しく愛想笑いをすることに疲れ果てていた。すごく、真逆のことをやっていたなと思う。でもそれは仕方なくて、私の場合、いつも望んでいる境地へは、自分に嘘つくところから始まる。なんでかは謎。なんかしんどい、って耐えられなくなって、そのしんどさに導かれて辿り着く場所がある。実は、一番の友達は自分の中にいた。人生って、内なる友達とのかくれんぼみたいなところがある。



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