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ウィトゲンシュタイン(言語ゲーム)


20世紀最大の哲学者、ウィトゲンシュタイン

 今回はウィトゲンシュタイン(1889〜1951)です。ウィトゲンシュタインはオーストリアの哲学者で、ケンブリッジ大学の教授になりイギリス国籍を取得しました。ドイツの有名な哲学者ハイデガーと並んで「20世紀最大の哲学者」とも呼ばれています。

前期ウィトゲンシュタインの「写像理論」

 ウィトゲンシュタインの哲学は前期と後期に分かれています。前期には、二冊ある著作の一つである『論理哲学論考』において「語りえないものについては、沈黙しなければならない」という言葉を示しています。これは、写像理論と呼ばれています。つまり、世界とは「事実と言葉が一対一対応」しており、それらの言葉を理解していけば、世界を理解できるとする考えです。この理論によれば、「神」や「道徳」や「教育」などは事実と対応していないので「語りえないもの」となります。

 この指摘は人々を驚かせます。西洋哲学には形而上学という哲学があります。これは、古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスが生み出した哲学であり、それは「感覚ではなくて、理性的に考えたり直感したりする」学問であり、その長らく続いた伝統を「矛盾である」とウィトゲンシュタインは断じたわけです。

ウィトゲンシュタイン小学校教師になる

 この写像理論を提示したあと、ウィトゲンシュタインは「哲学の問題はすべて解決した」として、哲学の世界から離れて、なんと小学校教師になるのです。「20世紀最大の哲学者」であるウィトゲンシュタインが、小学校の先生として赴任してきたらと想像したら、果たしてどんな授業をするのかワクワクしてしまいます。

 実際、ウィトゲンシュタインの授業スタイルは当時ではかなり奇抜だったみたいです。教科書による学習よりも、体験による学習を重視し、例えば、子どもたちを夜に集めて天体観測をしたり、猫の骨を集めて標本を作ったりしていたみたいです。さらに、当時は方言の影響もあって子どもたちの「綴り間違い」が多かったのですが、当時の教師たちはそれを黒板で一つ一つ訂正していくという非効率なやり方をしていました。ウィトゲンシュタインは、子どもたちが自分の力で学べるようになることを重視し、生涯二冊しか書かなかった著作の二冊目である『小学生のための正書法辞典』を刊行しました。おかげで、子どもたちは自分たちで言葉を調べることができ自学自習の機会を増やしたのです。

 そんな教育熱心なウィトゲンシュタインでしたが、あまりに熱心だったので体罰もよくしてしまっていたみたいです。結局、最後には体罰で子どもを気絶させてしまい、父兄からの猛抗議の末、辞表を出すことになります。

後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」

 その後、ケンブリッジ大学で再び哲学をすることになります。そこで、前期の自身の思想である写像理論をひっくり返し、言語ゲームという考え方を提唱します。これは「事実と言葉は一対一対応である」という写像理論と異なり、「言葉の意味は文脈によって決定される」というものです。

 言語ゲームについては専門家の意見を参照してみたいと思います。引用部分は野球の「ファール」というルールについての説明です。

というよりも、とにかく実践を通してやってみなければ「ファール」の意味はわかりません。つまり、言葉の意味は、それ単独では確定しないのです。
野球というゲーム全体の内部でのみ「ファール」は意味を持つ。野球というゲームの全体を把握している人間にしか「ファール」の意味は理解しえないということです。野球というゲーム全体に支えられて初めて一つひとつのルール、規則が明らかになっていくのです。そして、その場面では、ルールや規則がゲームに先立って明確化されているがゆえにゲームが成立するというのではなく、ルールとゲームの順序が逆転しています。

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 明快な説明ですね。蛇足になるかもしれませんが、僕なりにも言語ゲームについて説明してみたいと思います。

 例えば、体育の時間にバスケットボールを扱ったとします。そうなると、授業の始めは「パス」とか「ドリブル」とか「シュート」という個人の技能の練習、授業の中盤でそれを複数人でやらせて、授業の終盤で試合形式をするという流れにしたとします。これは、簡単なことから少しずつ教えていって、最後には複雑なゲーム形式という流れを意識している指導法だとは思うのですが、もしバスケットボールを知らない子どもがいたとしたら、始めの「パス」とか「ドリブル」などの動きは一体、何のための動きなのかということがわからないまま練習をすることになります。「パス」とか「ドリブル」という動きは、それ単体に意味があるわけではなくて、バスケットボールというゲーム全体(これを文脈と呼ぶ)の中に置かれて始めて「意味」が生まれる、ということになります。

「基礎→応用」という授業の組み立て方を考え直そう

 実はこれは授業における流れを考えるときにも役立ちます。さきほどのバスケットボールの授業もそうですけど、活動を伴う授業の場合、「基礎→応用」のような指導の流れを意識することが多いと思います。でも、それは「全容を知っている」教師だからこその視点であり、「何も知らない」子どもからすれば「基礎」と言われても、そもそも「全体」を知らないので、その意味を把握することができないということが起きます。逆に、いきなり「試合形式」のバスケットボールをさせたら、それこそ「パス」や「ドリブル」や「シュート」について、特に説明しなくてもその意味を納得できるでしょう。複雑なルールである、「トラベリング」なども特に教えなくてもわかる子さえいるはずです。

 作文指導でもそうですね。「構想を練る」、「文章の組み立てを考える」、「下書きをする」、「清書する」という授業の流れが多いですが、いきなり「清書する」という指導を一概に否定することは難しそうです。そして、「清書」してみたけど、内容が盛り上がらなかったとなれば、「構想を練る」という段階の必要性を、子どもはより実感を持って感じることができるのかもしれません。

 「部分を構成しているのが全体だから、まずは部分を理解しよう」、というよりは、「全体を動かしてみてから、部分に着目しよう」という考えは、カリキュラム理論である「逆向き設計」という考え方とも近いように感じます。