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『当事者研究』ってよく聞くけど何? 改めて学んでみた(4)

私の大好きなケアをひらくシリーズの本!
これを読んで当事者研究について改めて学んでみました第4弾

第4章は、綾屋紗月さんによる当事者研究がそのまま載っていて、当事者研究がいかなるものか直接おしえてくれる。
本当に「それめっちゃ分かる…」の連続。綾屋さんによる当事者研究は多くの人に新たな言葉を与え、アイデンティティを発見し、他者とのつながりをもたらすきっかけになっている


(ちなみに現象学の池田先生による第3弾はこちら。)

この章は、可愛くてわかりやすいイラストと共に、シンプルに読み物として楽しむことができる。
綾屋さんの当事者研究をまとめ直すことは私がここで文章を書くことの本意では決してないので、
ここには綾屋さんが全体として指摘している当事者研究の具体的なプロセスについて、忘れないように自分なりの理解をメモしておく。

カテゴリー化される前の苦しみ

何らかのカテゴリーを与えられる前の当事者は(特に外から見えない障害であればあるほど)、どうやら他人と違う自分の感覚に大いに苦しむ
「なぜ同級生のガールズトークが楽しめないのだろう…」
「なぜ声が上手くだせないのだろう…」

それらを説明するしっくりした言葉はなかなか見つからない。
そのぐるぐるとした混乱と、誰にも共有できない孤独感は想像するに難くない。

カテゴリー化された後の違和感

そこで、そういうふうに感じている人々の一部が出会い、希望を見出すのが、『医師(というマジョリティの中の権威)による診断』である。
近年、自らを発達障害ではないかと疑って精神科を受診する人は増えているが、それらの人々が望んでいるのは「名前のつけられなかった自分の苦しみをカテゴリー化してアイデンティティを獲得すること」なのだ。

しかし、それで本当に彼らはアイデンティティを獲得したことになるのだろうか
当事者研究が疑問を呈しているのはその点である。

医学による診断基準というのはあくまで「外部情報の記述」にすぎない。
そこには第3章でも述べられているように、当事者の感じていることとの乖離があるのである。

例えば、私が大人数の会話に入るのが苦手だとする。
すると、医師は「アスペルガー障害の症状の一つのコミュニケーション障害だ」というふうに判断する。
しかし、私にとってそこで起きていることは、「音声情報が多すぎて気が散ってしまう/言われたことを理解しようとしている間に会話が別のことに移っている」ということかもしれない。
「コミュニケーション障害」というレッテルはしっくりこないのである。

当事者の内部からの情報を言葉で紡ぐ

このように医師からはられたレッテルでしっくりこないものを、自分の内部からの言葉で捉えなおそうとするのが当事者研究である。

ここで大事なことは、「共同で行う」点である。
一人で自分の中で起こっていることを探るだけでは「カテゴリー化される前の苦しみ」に戻ってしまう。

そうではなく、自分の内部情報を、他人と一緒に、他人が了解可能な形で、新たな言語として紡いでいくのだ。
これによって、当事者は医療者や一般の人々からのより深い理解を得られるだけではない。
マイノリティたちがアクセスしづらかった「マジョリティ向け構成的体制(=言語、制度など人同士がつながる上での共通了解・基盤)」とは違う「新たな構成的体制」を立ち上げることによって、
綾屋の言葉で言えば『感染』という形で、
同じような苦しみを持ってきた当事者たちに、語ることのできる言葉を与え自己の存在をより確かなものにするのである。

医療によるカテゴリー化を超えて『感染』する

実際に、私はこの章を読んで綾屋が紡いだ言葉/概念に『感染』した。
私も、「他者像の侵入」や「他者像を振り払っても自己像は空っぽ」という体験を何度もしたことがある。
私は特に自閉スペクトラムの診断を受けているわけではないが、
綾屋の書いた言葉を読んで「まさにこれ……!!」という感覚を得て、それは私を安心させてくれた。

綾屋もろう者や脳性麻痺者の動きを取り入れたように、医療によるカテゴリー化を超えて似た部分を発見してつながることが許される、という寛容さが当事者研究にはあるのだ。

当事者研究はマイノリティ同士の連帯の鍵となるかもしれない。

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