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当事者が支援者になるということ

久しぶりに文章を書きたくなった。

虐待的な家庭環境で育った私は、高1の頃から様々な支援・心のケアを受けながら過ごしてきて、今は精神科の看護師を目指して勉強している。

よくできたストーリーに聞こえるが、「本当に私が支援者になっても大丈夫だろうか」という葛藤をしばしば突きつけられる。皮肉にも、もともと生きづらさを抱えていた私は、その探求と共感のために進んだ道でさらなる生きづらさを抱え込んでしまったようだ。

当事者が支援者になることの是非をたまに耳にする。

「心の弱い人は自分が病むから治療者にはふさわしくない」
「心に傷がある治療者は患者に思い入れが強くなりすぎたり感情的に巻き込まれたりするのではないか」
これが大多数の意見。

逆に、治療者界隈で聞くことは少ないが、
「自分が傷ついた経験は人の痛みを理解し癒やすのに役立つ」という見方もある。

さて、いったいどの意見が正しいのだろうか。
また、いくら賛否があろうと当事者が支援者になることは実際には少なくないなかで、どのような葛藤が生まれ、それをどのように理解すれば自分のためにも患者さんのためにもよいのだろうか?
そして、支援者として働く中で、どのようにすれば自分が当事者であるという事実を1人で抱えこまずにすむのだろうか?

これらの疑問を通じて、当事者-支援者というアイデンティティについて考えていきたい。

当事者経験は活かされるのか?

当事者経験というのは支援職にとって諸刃の剣のようなものだと思う。
一方で治療にとても役立つこともあれば大きく妨げてしまうこともある、ということだ。

まずは、役立つと思うことから書いていこう。

「同じ病気でも、そうなった背景や抱えている苦しみは違うのだから当事者経験を誰かのケアに活かすことは難しい」という人がいるが、それは違うと私は思う。なぜなら、心を病むことで味わう苦しみには間違いなく多くの共通性があるからだ。

学校や仕事に行くことのハードルの高さ。病気を人に言えない疎外感。病気であることでぶつけられた言葉や変わってしまった関係性。みんなにとっての当たり前ができなくなること。……

心を病む人同士の共通性があるからこそ、当事者研究が流行りピアサポートが流行るのである。この共通性が治療者としてのより洗練された共感につながるのではないか、と私は考えている。
もちろん、確かに苦しみ方が完全一致することはありえないし他人と違う部分をはっきりと認識しておくのは支援者としての最低限のたしなみだろう。つまり、熊谷先生と綾屋紗月さんの言う「同じでも違うでもなく」のわきまえである。

また、超個人的な意見にはなるが、当事者としては、一度でも死ぬくらいの圧倒的な絶望や苦しさを味わったことのある人間にみてほしい、というのが本音だ。
決して「自分の時はこうだった」と語ってほしいわけでも互いに傷を開示して安心感を得たいわけでもない。ただ、なんとなく、目の前にいる支援者が言葉だけで共感しているのか心で実感として受け止めているかは分かってしまうのだ。これは、今まで30人近くの支援者にお世話になってきた感想にすぎないし、もしかしたらこの共感スキルは当事者経験の有無とは関係ない可能性もあるが。

さて、次は当事者経験が治療を妨げてしまう時を考えてみたい。

支援者としての欠陥

最近読んだ学術誌に書いてあった。
確かにユングの「傷ついた癒し手」的治療者はその癒されない独特の空虚感から来る熱意と努力もあって素晴らしい治療成績をあげるかもしれない。でも、彼らは、治療的な愛着関係が必要な場面はどうも苦手だ、と。

それは、確かにそうかもしれない。愛着関係、というのは自分がその関係のなかにいた体験があってはじめて作れるようになるのかもしれない。
……だとしたら、支援者として、私達はなんと重い荷物を背負ってしまったことだろうか。

愛着、などと難しいことを言わなくても、私自身が他人をケアする上で自分の当事者経験が邪魔をしてしまうことがあることを認識している。

恥ずかしながら、例えば反応性のうつ病ですぐ軽快した人がSNSなどでうつ病を語っているのをみて反感を覚えることがある。その人にとっては大きな経験をしそれを通じて何かを得られたことを素直に認められないのだ。
逆に、自分と似たような経験をしてきた人の話を聞く時は、自分が苦しくならないように、感情のスイッチを切って頭だけで対応しようとするふしがある。

これらは、支援者となるうえでトレーニングと経験を重ねることで克服されうると信じているが、より一層の努力が必要なのだろう。

それでも支援者を目指す人々

いろいろ言われてはいるものの、私が支援者の業界に少し足をつっこんでみて思うのは、当事者が支援者になるのがふさわしくなかろうが、支援職を目指す当事者は多いしそれはとても自然な流れなんじゃないか、ということだ。

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だって、生きづらさがあるからこそ自分の心を知りたいと思ったり生きづらさを抱えた他人にも目が向いたりするし、何しろ支援者が身近にいて陽性感情(好き、とか、憧れる、とか。)を持ちやすい

本能的に目指してしまうのだから仕方がない。
だから、できることは「諸刃の剣」の悪い方の影響を少なくできるように努力することだ。そのためには、学問を通じて専門知を身につけ、実践を通じて自らの逆転移を意識化しその扱いを学んでいくしかないのではないだろうか。後者の方は非常に苦しい営みになるだろう。

まあ、専門知があれば専門家として働けるのである。
「良い支援者」であるかは別として、誰もが一定の質のケアを提供できるように構築されたものが専門知であり、それを学び実践することができればそれは専門職である。だから、私は自分の一番の土台となるであろう学問に深い信頼をおいている。

元気の出る話を少し

私と同じように当事者で支援者を目指す人のために、元気の出る話をしたい。
最近知り合ったPSW(精神科ソーシャルワーカー)の方に聞いたのは、「PSWの業界は体感半分くらい当事者だよ!!」ということだ。(それが自然と受け入れられているのがPSW業界なのだろう。)
最近は、専門職と当事者の境界があいまいになってきているようだ。精神科医の中にだって心を病んでいる人はたくさんいるし(「何で精神科医になったんですか?」と聞くと、訳ありげにごまかす先生も多い。)、患者さんの中にも専門職がいたりするのだから、「100%支援者」や「100%当事者」はいないだろう。むしろ「100%支援者」の顔をして支援してくる人がいればそれは権威的すぎて支援者として機能しないのではないか、とすら思える。

最後に。
当事者が支援職につくのは、確かに自分の理解にもつながるし他人の回復を目の当たりにすることは本当に大きな財産になる。
ただ、1つ私が支援職を目指す以前よりも強く感じるようになったデメリットは、「自分自身のケアは求めにくくなるかもしれない」ということ。想像してもらえば分かるだろう。自分が支援者としてそれなりの社会的地位を築くことができたらなおさらだ。
だから、セルフケアでなんとかなるくらいまでには回復しているとか、頼れるスーパーバイザーがいるとか、弱さを見せられるサードプレイスがあるとか、そういうのが大切かもしれない。支援職の当事者研究も始まっているようだが、支援者が弱さで連帯できるような場があればいいのにな、と思っているところだ。


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