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理性と本能の争い

僕の中の戦い

「争う」という言葉は苦手なのですが、僕の無意識の中ではいつも争いが絶えないでいます。それは、理性と本能の争いです。

変わりたいという自分と変わってしまうのに凄く抵抗している自分。どちらも自分の為にではありますが、日々争いは絶えないものです。

過去の僕は、弱くて情けない自分に嫌気がさしていて、ネガティブな現状に到底満足することも納得することもありませんでした。だったら、何もかも、変えてしまうために、新しい一歩を踏み出せばいいだけの話だったのですが、その一歩が踏み出せないでいました。

周りのみんなが、いつか良くなっていくものだから大丈夫だよっていうから。僕自身も今はまだ変わる時期ではないと感じるからと、適当な言い訳を並べては、自分にしょうがないと言い聞かせ、勇気をくじかせている。

でも、それは決して意地悪をしたいわけじゃなくて、ただただ、新しく踏み出したことで、傷ついてしまうかもしれない自分を心配しているだけなんだ。

小学生の時に、厳格な母のもと、学校終わりはいつも習い事ばかりでした。放課後、友達と公園で遊ぶのが夢でした。そんな時に、たまたま偶然習い事がお休みで、僕は自由になったのです。母には内緒で数少ない友達に声をかけて、とある公園で待ち合わせをしました。母にばれたらともう一人の僕が必死に説得したのだけれど、そんな忠告を振り払って、一目散に公園に向かったのでした。しかしそこには、ちょっとやんちゃな上級生のたまり場で、友達が来る前に、僕は絡まれて、けちょんけちょんにやられたのでした。もちろん、ボロボロの僕をみた母からも、雷が落ちたように叱られたのでした。その時のショックが大きかったせいか、幼き記憶にしては強く残っています。

「ほら、あの時みたいに痛い目みるよ。」これが、もう一人の僕の歌い文句なんです。何か違う事、何か新しい事をすれば、必ず痛い目にあうよという警告なのです。つまり、もう一人の僕は、できるだけリスクを避けて自分を守りたいという心理があるからです。

だから、何も考えなければ、何もしなくてよい方向に意識はむいてしまう。自分を変えなくても、これ以上は傷つくことはない。これまで通りネガティブな自分だけど、苦しみながらでも、何とか生きることができるのです。自分を変えようとして、失敗した時の方が、自分を余計に傷つけてしまう可能性があるから。

それは、得るものよりも失うことに過剰に反応してしまう傾向に意識は働くのものです。それは、僕だけではなく、誰もが持っている本能なのです。しかし、問題なのは、そこに見境がないこと。僕がどんなに変わることの意味を唱えても聞く耳を持ってくれないことなのです。

どんなに覚悟を持とうとしても、その選択を臆してしまうくらうい本能は強く働くのです。

自分に出来ること

現状維持では、僕らは幸せになれないことを証明しないといけないし、変化の先にどんな自分になれるのかを、自分自身が明確にすることで、もう一人の自分の中の本能を超えていけるのではないかということ。

それは、実際に行動して、証明していかなければいけないものだと考えられます。

変わることを恐れる本能に対して、変化することは豊かになることだと理性を持って行動して証明していく。それは、日常の中の小さな変化で、証明することができるのです。新しいカフェを訪れて、自分にとって、雰囲気がとても落ち着く場所を見つけられた。隣町で買い物しにいったら、お気に入りのショップが見つかった。そういった、日常の中の小さな変化でさえ、新しい好きに出会い、人生のプラスに繋がっていくのです。そのデータが、自分の中に蓄積されていき、いつしか、変わることに対して恐れない自分になっている。確かに、あの時に、僕は公園でこっぴどくやられてしまった。だけど、それは、たまたまだったのかもしれない。そう思えるくらいまで、立証することが出来れば、あの痛かった過去の記憶から解放することだって出来るのです。

これこそ、自分の中の本能との争いを辞めて、和解する瞬間ではないでしょうか。

以前として、僕の中では、理性と本能が争い、変化をおそれている僕がいます。だけど、諦めずに、今日も何か新しい事に対して否定をせずに踏み出す自分でありたいと思っています。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー

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