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生きるためにやって来た仕事のはなし

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なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です
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ほたるのはなし

季節外れのはなしで申し訳ない。 暑い暑い夏の夜に飛び交う『蛍』のはなしである。 note の『傘わっしょい』さんの短歌が好きで、毎晩一首づつ読ませてもらっている。 その中にある昨年末の短歌が私の記憶の引き出しに手を掛けた。 短歌 壁ホタル 人感センサーライト センサーの狂ひし蛍のやうにしてわれはありなむたれからもひとり の『狂ひし蛍のやうにして』とセンサーを蛍に比喩されているのだが、たった一度だけのこと、それも生まれて初めてたくさんのホタルの群れに包まれたことを思い出

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『K』という営業課長の話

私は営業所と現場での事務を都合4年間やり、営業職に移った。営業所の建築課長とあることの主張で対立し、もう会社を辞めようと思っていたところを営業所の営業部長に諭され、促されて営業に移ったのである。でもこの時の京都営業所営業課での所属は1週間だけであった。どうせやるなら大阪支店で勉強して来いと新しく代わった営業所長に背を押され、大阪支店営業部に送り出されたのであった。 そしてこの後私の出会った多くの先輩達は皆アクが強く、皆強烈に仕事の出来る男たちばかりであった。 その中でも私はこ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『S』という事務課長の話

それは1本の電話から始まった。 着工のもう決まっていた有料老人ホームの建設に反対する近接町内会の役員からの電話だった。 見晴らしのいい山の斜面に斜向で計画された老人ホームであった。万全の安全計画・仮設計画はしていたものの、掘削した土砂をどうしてもダンプで運び出さなければならない。そのダンプの走行経路の町内会だった。この町内会を含めて関係する町内会全体から承諾をもらっていたが、それを翻す電話だった。 どこに行っても老人ホームは「嫌悪施設」とみられるきらいがあり、総論賛成各論反

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『T』という所長の話

私がゼネコンで営業マンになったのは30歳になってからである。 当時はまだ若い営業マンは少なかった。 高度経済成長期にはゼネコンに営業をさせずとも、大きなインフラ事業(高速道路、ダム、トンネルなど)が十分会社を潤わせてくれたのであった。 営業部にはそんな大型現場を終えてきた所長クラスの土木屋、建築屋が次にやって来る仕事に控えて、朝から暇そうに煙草をくゆらせ新聞に目を通して昼前に会社を出て行って、そのまま帰ることはなかった。 まだ潤った時代の名残りは会社に本当の営業の必要を感じさ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)『たけのこの思い出』

もうずいぶん以前になるが、ゼネコンで営業マンをやっていたことがある。 建設業は決まった製品を作り売る製造業とは違う。何もないところに事業や建物を構想して一から作り上げていくのである。 「まずは土地ありき」と思われがちであるが、そうばかりではないのである。 どのゼネコンも官民の担当を分けていた。飲み食いが当り前の民間営業と官庁営業を一緒にしてしまうと贈収賄にもつながりやすく、第三者の目から誤解を受ける可能性もある。だから分けられていた。しかし、きちんと分けれるのは本社や支店の営

ものを考えるスタイル

新聞の定期購読はいまだに日経です。「まだ日経なんか読むの、、」と年上の方から言われたことがありますが、ま、私の使う金であり、私の興味・知りたいことは日経にあるので自由にさせていただいています。今は電子版に変えて仕事にも便利に使っています。 社会人になりたての頃のプレゼンの資料作りはいつも半日図書館に籠りました。たくさんの紙の資料に目を通して、高い使用料を払ってコピーを取り、それをデータにしたり貼り付けたり(糊でですよ)、それをまたコピーして資料を完成させていました。今は自室

我が人生に悔いは無く

この年齢まで生きると、まあ自分の先が見えてくる。誰でもそれは同じだろう。ただ、それを満足するかしないかは、誰もが同じではないだろう。 ああ、あの時にああすれば、こうすればと振り返り考えるのが一般的なのかも知れない。 私にもそんなことがないわけではない。もともと大学には行くつもりは無く、レールに乗る人生が嫌だった。とにかく一人で生きていくことが目標であった。その到達目標が初めの頃は定まることは無く、とにかくまずは肉体労働が生きることと思って信じて疑うことのない時期があった。そし

発想とそれを進める難しさ

皆様の記事を拝見していて時々昔やっていた営業を思い出す。 Shinjiyさんの「普天間基地移転の秘策」を先日読んでいて思い出していた。 「浮体工法」を用いれば埋め立てを行うこと無く基地移転を行うことができるという秘策を書かれていた。 Shinjiyさんの言葉を用いれば巨大な弁当箱を海に並べ浮かべて地盤代わりにする。もちろん弁当箱の中もある程度は事務所や倉庫などとして利用のできる空間となる。自然を破壊することなく共存できる基地となるのである。 水より比重の重い鉄を浮力を利用し

誕生日を前にして

気がつけばまた誕生日を迎えます。 好むと好まざるとにかかわらず誕生日はやって来ます。 特に感慨は無く還暦を迎え、それから三度目の誕生日を迎えます。 「年齢なりの」といった概念がほんのこの数十年ほどで変わっていますね。 私が社会人をスタートしたゼネコンの世界、当時の営業畑で生きて来た先輩方の姿をよく憶えています。 癖のある先輩方は今の私と同年代でした。どの先輩もよく飲みよく仕事をしました。ナイスガイが多かったですよ。私は長い間一番下っ端だったので、どの先輩方からも夕方声がかかり

ある日の日記

忙しくて、というよりも考える余裕の無かった七夕の日。 こんな日もあるさ、とうそぶく私がいた。 こんなすべてが血肉になるさ、そう思いながらここまで生きて来た。 でも、それが本当だろうかと思う私もここにいる。 請われて行った会社のオーナーに「あの男だけには経営権を渡すな」そう言ったが、ガンで気弱になっていた女性オーナーはそいつに社長の座を渡した。 私が去って一年後に元気になったオーナーから電話があった。「金を使い込まれたがどうしたらいい?」「すぐに弁護士に相談しなさい」私がそう

道は人がひらく

世の中は人が動かしているとつくづく思う。 そんな事を思い出していた。 最近、ある人から頼まれて日本の道路事情を調べていた。 私はゼネコンにいた。設計事務所にもいた。どちらも建築担当の営業マンだったが土木の事も疎くはない。 でも、国道、県道でいろんな理由から通行困難な道を酷道、険道という言い方があることを知らなかった。 道路法という法律の中、政令で定められる国道、知事が認定する県道がある。 高速道路、一般国道の国道は全国に500ほど、県道に至っては数千もの数があるのだろう。 そ

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.15 京都大原野の春のひろがり)

一昨日、京都は大原野にある放置竹林整備のNPO事務所まで出かけた。 盆地の京都市内は夏は暑く、冬は寒い。三年間京都市内で暮らしたが、旅行に来る場所であって、居を構える場所ではないと京都の皆さまには申し訳ないがそう思った。 この大原野は西京区大原野である。あの三千院のある大原は左京区大原、勘違いされる方が多い。私たちが事務所を置いているのは西京区大原野小塩町(にしぎょうくおおはらのおじおちょう)である。 ちなみにこの西京区を「にしきょうく」と清音で発音される方がいるが正しくは「

私の好きなものと嫌いなもの

子どもの頃からUFOやオカルト、妖怪などの説明のし難い、よくわからないものが好きである。この世に起きる『超常現象』ってのが好きである。BSで『Xファイル』をよくみていた。そんな事ってあるかなぁ、でもあってもおかしくないなぁと思えるUFOやUMAやオカルトの事件をアメリカ連邦捜査官のモルダーとスカリーが追っていく。いかにもアメリカの娯楽番組らしい早いテンポで進むドラマが楽しみだった。ほぼ毎回の完結というのもよかった。自身が納得すればよく、誰が見ても答えは一つしか無いような終わり

修道院のレシピ

フランスのある修道院で戦後若い女性が何かの楽しみを見つけられればと、日本の花嫁学校のようなものを開いた。その料理クラスが使ったテキストが、この『修道院のレシピ』だったそうである。 出て来る料理は家庭料理ばかりである。野菜の料理が多く、我が家の常備野菜と調味料でも作れそうな料理ばかりである。とんでもなく美味そうな料理は出てこないが、身体には良さげな料理ばかりである。あまりに身体に良さげでずっとながめていると退屈してくる写真である。 行方知らずになっていたこの本が部屋の片付けをし