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だまされたキブンで。

実は、今朝から、私は身体が重い。いや、本当のことをいうと、身体よりも心が重い。お外は、クイーンズランドが誇るこんな青空爆発、そして、今日は、あと5日残る、子供の春休みの1日で、そしてかつ、私の大学院のクラスも明日再開なので、今日は、リラックス「すべき」「できるはず」日なのに!

おおお、やばいやばい。この方向性、ダメダメ。「すべき」、じゃないじゃん!

この1週間、思いがけないことばかりが続いているので、心が重い様々な理由は自分でも分かっているのだけれど、それはさておき、実は、最近、自分が、この「すべき」と「できるはず」という観念に、何十年も囚われていたことに気づきはじめた。この「自分はこれだけのことをやってきたから、本当は、***くらいはできるはず」だとか、「私は、***だから、こうすべき」とかこういうもの。***には、何を入れてもいい。ここに、自分の人生の中で積み上げてきた思い込みや、定義をいれてやると、自分の中にある「すべき」病、「できるはず」病に、簡単に会える。

この手の話を、本当に仲のいい友人たちとする中で、なかなかの自由人だと思って生きてきた自分にさえも、「すべき」「できるはず」の檻の中に、自分で自分を放り込んできたことが、まだまだあることに気づかされ、はっとさせられている。「これができるはず」は、自分の何かに対する能力を自分で判断して、行動に移すきっかけにもなるので、全く悪いことではないし、自分のメタ認知能力(metacognitive ability)の証明でもあるのだけれど、「これができるはず」にうっかり心を奪われ過ぎると、自分の現実と「できるはず」の間に、自分をまたまた押し込んで、「お前は、これだけできるはずなのに、こんだけしかやってないじゃん!」と自分を責める結果となってしまうのだ。
マインドフルネス(mindfulness)の分野の読み物にはよく出てくるのだけれど、こういう悪循環を避けるためには、自分の心を、今、この瞬間に集中させて、自分の思い、考え、そしてその結果として生まれる身体の反応を認め、受け止めること、が大切という。ヨガや瞑想をすると、このスキルが上がってくるのだけれど、改めて、「ありのままの自分を、自分が健康的に認めてあげる、ほめてあげる」ということが、まだまだ心の日課になっていないなあと思う。他人からではなく、自分の、自分による認め。これ、大切。実は、なかなか難しい。

心や身体や、キャパシティーや、いろんなことを、またグタグタ考えていた今朝、昨日も書いた、このnoteを始めるきっかけとなった先輩からメッセージが来た。

「その後、どうですか?まずは、(noteを)3日続けてみると、いいことあるかも。」

ささやかなアドバイスと共に、そんな短いメッセージが私のメッセンジャーに届いた。

なんだ、そのおまじないみたいなメッセージは!いいこと、あるの?かも?そうなの?!

そのメッセージが持っていた圧倒的ウキウキ感だけに後押しされて、実は、今、このノートを書いている。人が綴る言葉の強さ(その反面には脆弱さや強烈な危険さもあるのだけれど)と、言葉のもつ可能性を感じずにはいられなかった。朝から晩まで、ないはずの暇の合間をみては、世界のニュース読みまくるニュースジャンキーの私は、各国メディアが伝えるあらゆる現実と向き合い、どうしようもなく心が重くならざるを経ないのだけれど、先輩のそんな何気ないメッセージが、心の重さを吹き飛ばしてしまうほどの明るさを持っていたことに、今、この瞬間、感謝したいなあと思った。

「次にnoteを書くのは1週間後かな?」なんて呑気に思っていたので、3日連続と聞いた時には、小さい時によく聞かされた3日坊主、とかそういう言葉も頭をよぎったけど、まずは、だまされたキブンで、書いてみた。考えすぎずに。昔、親が好きだった美空ひばりさんの、あの名曲「川の流れのように」ではないけれど、今、自分がいる、地球のこの場所にある、このでこぼこ道に、しっかりこの足をつけて立って、雨に降られても、ぬかるみも超えて歩いていけるように。そして、毎日のごたごたの中で、忘れがちになるけれど、自分を自分で認めてあげることを忘れないようにしたい。自分を自分で認めてあげることを「難しい」と決めつけてしまう自分の脳のセンサーにも、「そんな可能性に制限をかけてしまう思い込みを捨ててみない?」と呼びかけて。私たちの生きる世界中のコミュニティーの中で起きている、信じがたい現実に希望を失いそうになる瞬間も、優しい太陽の下で流れる小川のせせらぎのような、穏やかな心と、嵐がきても流されない意志を持って、自分の周りにいる友たちと、つながっていきたい。

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