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大阪難波を舞台にした小説 J-BRIDGE 4.

「兄ちゃん、時間あるか?」
 明石の腕を掴む手のひらに、男がぐいと力を込める。
「えっ、時間は……」
「ちょっとだけや、ほら行くぞ」
 言いよどむ明石の声など気にする素振りも無く、男は明石の腕を掴んだまま立ち上がる。座っていたときですら威圧感を与える大きな体格が、より一層際だって明石の前に立ちはだかった。
「千虎さん、ほどほどにしなさいね」
 そう言って大柄の男を窘めるのは、隣に座る痩せた狐顔の男。それだけを言うとポケットからスマホを取り出し指先で弄り始め、明石には微塵の興味も無いようだった。
「さあーてと」
 千虎と呼ばれた男は、明石の肩に覆い被さるようにして身体を拘束し、そのまま店の外へと連れ出していこうとする。傍目から見ても仲の良い二人組には到底見えなかったが、店員は誰も彼のことを呼び止めようとはしない。
 最早逃げ出すことも叶わなくなった明石。このまま連れて行かれれば、自分はいったいどうなってしまうのかと、悪い想像ばかりが膨らんでいく。男に組み付かれ、そのまま引きずられるような形で扉へと向かう身体は、逆らおうとすれども全く言うことを聞かなかった。
「明石?」
 明石の背中から彼を呼ぶ声がした。その声に明石は渾身の力でブレーキをかける。そのことを察した千虎がまず振り返り、少し遅れてなんとか明石が振り向くと、帰り支度を済ませた友人達の姿がそこあった。
「あっ、おかも……」
 絞り出すように声を出す明石の口は、千虎の手によって塞がれる。流れるように睨みを利かせる千虎に対し、怯みながらも相対する友の姿に、明石は心の中で望みを託していた。
「なんや、この兄ちゃんの連れか? こいつ借りてくで」
 外見だけでも気圧されていた二人。想像に違わない男の声がたたみ掛けると、心臓を掴まれたかの如く表情が変わった。早くなった鼓動が聞こえてきそうなほどの顔は、ともすれば泣き顔にすら見えかねない。
「あ、あの」
 先ほどまでの軽快な口調が見る影も無くなった岡本が、武田が制止するのを振り切って声を上げる。その姿に、明石は心の中でこれまでの自らの態度を顧みた。
 どれだけ立場が変わろうとも、俺たちの繋がりはなんら変わることは無い。あいつらは俺を見捨てないんだと、感情のこみ上げた明石はもう、それだけで良いと思えた。
 自分がこの後どうなろうとも、その事実があるだけで救われる。そんな期待を越えた確信を込めた明石の眼差しは、岡本の次なる言葉が発される口元に注がれた。
「明石、金はまた返してくれよな……」
「なんやて?」
 思いも寄らなかった言葉に、明石が反応するよりも早く千虎がリアクションを取った。まさかこの場面でそんなことを気にするなんてと、自分の耳を疑うような千虎の目が岡本の逃げ出す瞳を捉える。明石の目からは獣にしか見えていなかった千虎が、その様子で人として体を表す。
「うわあああ!」
 明石は自分の置かれた状況をそのときはっきりと理解し、口を塞いでいた手を撥ねのけて声を上げた。一人の人間として現実感を帯び、くっきりとした千虎の輪郭。浮き上がる血管や膨張した筋肉が、行く末を暗示するように目に焼き付く。
「黙っとれ」
 さっきよりも強い力で口を塞がれた明石。今度はちょっとのことでは振りほどけそうもない。それでも、明石の叫びは遠巻きに見守っていた店員の重い腰を上げさせた。
「お客様……、店内で揉め事は困ります」
 その物言いは外へ行けば関与しないことを伝えていた、むしろ早く外に出てくれと言わんばかりに。出入り口の扉の周りで固まっていた男女四人のグループもが、道をさっと開けて明石達を宵の耽る街へと誘おうとしていた。
「おいこらクズが」
 千虎は店員に取り合うこと無く、岡本から片時も目を離さない。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことかと言わんばかりに、岡本はただ恐怖に立ち会うのみ。
「お前はその年でもう使い終わった爪楊枝や。なんの価値もあれへん、消えてまえ」
 ただそれだけを吐き捨てると、最後に隣で無関係を装っていた武田にも一瞥をくれ、捻っていた首を正面に合わせた。道はもう開けている、あとはただ歩みを前に進めるのみ。
「おら、行くぞボケ」
 明石を捉える腕にことさら力を込め足を動かす千虎。明石の体にはもう力が籠もっておらず、千虎の動きに合わせるようにしているようですらある。諦めの感情に体を支配された明石は、最早人の形を成した人形となっていた。

 引きずり出される形で居酒屋を出た明石。週末、二十二時、大阪ミナミの繁華街。まだ人で溢れているはずの街が、果てしなく遠くに感じるほどそこは静かで、明石は街と完全に切り離された心持ちになっていた。 千虎にどっしりと肩を組まれながら、ただ足を動かすだけだった明石。どんどんと遠ざかる繁華街の喧噪と、ひとつ、またひとつと姿を消してゆく華やかな電飾を、名残惜しく見送っているうちに辿り着いたこの場所。
 薄暗い路地を何本か跨いだ先に建ち並ぶ古ぼけた雑居ビル。それらに囲まれるようにして、そこだけぽっかりと存在する空き地に、彼は今立っていた。好き放題に伸びた雑草の切れ間から、怖いもの見たさで覗いているような一匹の猫の他には、通りかかるものすらいやしない。
「ほら、さっさと離れんかい」
 抱えていた荷物を、ポイと放り投げるような動作で千虎に解放された明石。指先を弛緩させるようにして、片手ずつ関節を鳴らす音が聞こえたのも束の間。鳩尾に鉄球食らった彼は、体を鋭いくの字に曲げて呻き声を上げた。
「はよ体起こせ」 
 明石が鉄球だと感じたのは千虎の拳。なんとか顔を上げようとした矢先、再び同じ箇所に衝撃が走る。数十分前に口にしたばかりの脂っこい料理が胃の底から沸き上がり、外へ飛び出そうと明石の口腔いっぱいに広がった。
「今のはええとこ入ったやろ。おら、反撃してもええんやぞ」
 空嘯く千虎の声色からは、表情を緩ませきっていることがわかる。対する明石はア行の和音で呻くことしかできず、苦悶を貼り付けた顔で嘔吐するまいとただ堪えている。
 そんな明石の世界が、ぐわんと横にずれた。千虎の振り上げた拳が頬骨を捉え、鈍い音が短く響く。その音が茂みに隠れていた猫の耳をぴくりと動かすのが、彼の視界の端に映った。
「なんか喋れや、すぐ飽きてまうやろ」
 その言葉と共に、同じ方向からもう一度頬に拳を振るう千虎。頭では逃走の指令を出し続けているはずの明石だったが、彼の体が素直に従ってくれない。口の中は鉄の味でいっぱいになり、高熱を出した時のような気怠さが全身を襲い出していた明石は、やっとのことで声を絞り出した。
「もうやめ……」
 頬には涙を伝わせる明石の懇願は、千虎に届く前に宙に霧散した。次々に飛んでくる千虎の拳に指揮されるがままに揺り動かされる身体と、電車が鉄橋を走り抜けるときのような騒音が鳴り響く頭。悪夢の方が幾分かマイルドではないかと思える現実が、明石の心身を支配する。
 衝撃に耐えかねた体を固い地面に預ける頃には、明石の視界には薄らと赤い膜が張っていた。土の広がる地面に冷やされる腫れた頬、その心地よさに浸れるのはほんの一瞬。現を抜かしていた明石は千虎の太い足で何度も腹部を足蹴にされ、生まれて初めてサッカーボールの苦労を知る。
「ほら、立て立て」
 血と涙で視界がぼやけていく明石。逃げ出す隙など見当たらず、反撃なんてもっての他。彼に出来ることといえば、沸き上がる吐き気を懸命に押さえ込み、時が過ぎゆくのを待つことだけ。
 これまで人から暴力を振るわれる経験をしてこなかった明石は、心のどこかで、暴力も一種のコミュニケーションであると考えていた。言葉で語ることの難しい感情を、拳に乗せて相手へと伝える。不器用な人間が備え持つ必死の叫びなのだと、そんな幻想を抱いていた。
 千虎の拳は何も語らず、何を背負ってもいない。ただ明石を痛めつける為の道具としてその役割を果たす拳は、無情なまでに明石に痛みを刻み込んだ。
「おっ、雨か」
 五月雨のように降り注いでいた千虎の拳が、奇しくも雨によって止む。しとしとと降る秋雨が、その存在感を増してゆく。明石にとってその雨は、鬱陶しいよりもむしろ心地よく感じていた。
「帰るわ!」
 まるで友人と遊んでいたかのようにそう言い放った千虎は、驚くほどあっさりとその場を立ち去っていった。段々と消えゆくじゃりじゃりとした足音が、千虎が遠ざかるのを誠実に伝える。千虎の姿が見えなくなったことを確認した明石は、胃の内容物を盛大にぶちまけながらその場に倒れ込んだ。
「痛え。指輪してやがったあいつ」
 なんとか膝から折れた明石だったが、ほどなくしてミミズのように地面に這いつくばる。頬にビニールのゴミが張り付いたことを気にする余裕などないのに、負けないために喉を震わせた。
「それも薬指な、左手の!」
 負け犬が吠えるのを打ち消すのは激しさを増してゆく雨。繁華街のざわめきは明石の耳にはもう少しも届かない。鼻を衝くのは雨が染み込んだ土の匂いと、どこからか漂う生ゴミの香り。閉じゆきそうな瞼の隙間に映るのは、飾り気の無い真っ黒な靴。
「これは、あれや……。酒が回って眠たいだけや」
 虚ろな目に映る足先に驚いて飛び起きることなど、今の明石にはできるはずもない。それが現実かの判断すら難しい彼は、それでも格好をつけた。
 明石の瞼が完全に閉じる。そんな彼の傍に立っているのは、千虎に負けず劣らずの身体を持つ一人の男。
 その巨体を覆ってもまだ余裕があるほど大きな傘を携えた男は、一歩ずつ明石に近づいていく。明石の傍まで来た男は、とても長い時間彼のことを見下ろし、ただそこに立っていた。

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