仮面

仮面を被った私たち〜分人主義から見るキャラの考え方〜

私は、高校生の時ずっとキャラを演じている自分に悩んでいた。
「本当の自分はこんなんじゃないのに、結局誰も本当の私を知らないんだ」と。
特に思春期はキャラを演じていると悩むことが多いと思う。
今日はそんな悩みを抱えている人に読んでほしい内容。

キャラを演じているあなたへ

あなたはこんな風に感じているのでは?

「部屋に1人でいる時」「親しい人といる時」は『本当の自分』で、それ以外は『仮面を被った自分』だと...。

「良い人キャラ」「できるキャラ」を演じているだけで、本当の私は全く良い人なんかじゃないし、ダメダメなのに...だから、相手から期待される「偽りの自分」とのギャップが苦しい...。と。

でも、それは少し違うと思う。
私たちは自分を分かっているようで、本当は何にも分かっていないのだ。
他者と共に生きるということは無理強いされた「偽物の自分」を生きるということではない。

全部本当の自分〜分人主義〜

「分人」という言葉がある。

分人(dividual)とは、対人関係ごとの様々な自分のことで、たった1つの「本当の自分」など存在せず、対人関係ごとに見せる複数の顔が、全て「本当の自分」と言う意味だ。
つまり、誰に見せるどんな顔も本当の自分で、それぞれに見せる顔が違ったとしても、全部本当の自分なのである。

1人の人間は複数の「分人」の集合体であり、そこには本当の自分という中心はない。
「その人らしさ」「個性」というものはその「複数の分人の構成比率」によって決定される。
分人の構成比率が変われば、当然個性も変わる。
個性とは決して唯一不変のものではない。
そして、「他者の存在なしには決して生じないもの」である。

私たちは様々な外的な枠組みや立場の中で生きている。
「大学生」「社会人」「男」「女」「友達」「恋人」「夫」「妻」「親」「子ども」...。
大人になればなるほど、この外的な枠組みが強固になり、ある意味生き易くなる。
「サラリーマンらしさ」「妻らしさ」など立場が明確になることで、相手との距離が勝手に測られる為である。
「自己有用感」「肯定感」「自分は必要とされている」「役に立っている」「役割がある」と感じられ、枠組みの中で線を引ける。

他方で、その枠組みの中でどこまで自由でいられるのかを模索することもできるし、勝手に自由になってしまうこともある。
「演じるのではなく、勝手になってしまう」
そこに自分らしさがあるのではないだろうか。

人はなかなか、「自分の全部が好きだ」とは言えない。

しかし、「誰々といる時の自分(分人)は好きだ」とは、意外と言えるのではないだろうか。
逆に、別の誰々といる時の自分は嫌いだとも。

そして、もし、好きな自分が1つでも2つでもあればそこを足場に生きていけばいい。

誰かといる時の自分が好きという考え方は、必ず一度他者を経由している。「自分を愛するためには、他者の存在が不可欠」という、その逆説こそが分人主義の自己肯定の最も重要な点である。

人間が抱えきれる分人の数は限られている。

学校で孤独だとしても、何も全員から好かれなければならない理由はない。友達が3人しかいないと思うか、好きな分人が3つもあるかと思うかは考え方次第だ。

基本的に全ての記事は無料でご覧頂けます。もし有益だと思って頂けたらサポート頂けますと幸いです。書籍等を購入する勉強費、活動費(イベント代、取材費等)として大切に使わせて頂きます。コメント等もお待ちしております。