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海を見ると死にたくなる⑤/社会人1年目日記〜私たちはあまりにも贅沢になりすぎた〜


私たちはあまりにも贅沢になりすぎたのかもしれない。

有名人/一般人と括るのもおかしな話かもしれないが、彼らから与えてもらいすぎている。
彼らの作る音楽を分け与えてもらえるだけで幸せなのに、彼らのプライベートを不必要な好奇心で覗き見したがる。



何のために生まれて何のために生きるのか、毎日考えている人がいても良いし 1回も考えたことがない人がいても良い。でも私たちは多様性を認めようとしていて、多様性を認めない人も多様性に含まれると言って排除することができない。



誰かの憶測が小さな波紋を呼んで、全く関係ない話が主役の話に勝手に結びつけられる。そんな世界が嫌だと叫んで逃げようとしたものに、本当の意味での救いなどあるのだろうか。





コロナは比較的軽症で済み(おそらく2回目だったということもあり)、穏やかな日常が帰ってきたはずだった。なのに今月の私は鬱々としている。同期の前では機嫌よく笑い、研修担当の社員の前では愛想を振り撒く。でも会社を一歩出た途端に押し寄せる疲労の量が、先月より格段に増えている。



私の悩みは私の内的要因というよりかは、外的要因によって生じていて、それはもう自分一人の手で押さえ切れないくらい大きなものになってしまった。気づいたら悪性腫瘍が体の中で生きていたかのように、自覚した時にはもう施しようがないくらいの状態になっていた。




社会人には締切と責任と結果と、、給料に見合った仕事を、立ち振る舞いをすることが求められている。与えられた自由な時間の中で試行錯誤をし、結果の出ない努力は意味がないと微笑む。みんなGiveをしてくれるけれど、どこかで自分もGiveができなければ見えない何かに押しつぶされる、そんな気がしている。


お互いの頃をまだよく知らなくて平和だったあの頃。お互いの頃をよく知って仲が深まってきたからこそ平和に小さな波が立った今。ここまで良いこともあれば、悪いこともたくさんあった。何で今の会社を選んだろうとこんなに思い悩むつもりではなかった。


どうしたって周りに同い年の仲間がいると、青春の1ページのようなキラキラした時間を築きたがる。裏で暗い顔をして自分を慰めて、明日はきっといい日になると祈る。今日の失敗や怒りなんて大したことはなかったか、と自分に言い聞かせる。


そんなことを繰り返して、今日も私の周りには笑顔が溢れている。


思い出作りといえば聞こえが良い。全員仲間と言えば都合が良い。でもお互いの嫌な部分が見えたし、この人とは合わないなと気づいたし、この先もう話すこともないのだろうと悟ったり、距離が縮まらないまま関係を続けるってことはビジネス上での仲間なんだなと新しい人間関係に名前をつけたりして。




自分でも何が言いたいのか分からないけれど、大人だからこそ描ける青春を築いてしまっていた。


私たちは大人になってしまって、傷つかない方法を知ったし、相手を傷つけないように少し気を遣えるようになったし、接する相手を選ぶようになったし、傷つけられそうだったら逃げるという選択肢を持てるようになった。自分にとってプラスになる人間だけが最終的に自分の周りにいるように、少しコントロールできるようになった。


私たちはお互いが傷つかない青春を、表だけ綺麗な青春を、周りに悟られることがないように作り上げることにもう少しで成功しそうなのだ。



甘い蜜を吸う誰かのことを悪く言わずに、Giveし続けられる自分を成長したという言葉で綺麗にまとめる。
この世界の表があまりにも綺麗すぎて反吐が出てしまうと思う回数が多くなった私は、不必要な異分子だったのだろうか。


誰かの自己主張を個性と認め、貴重な自己開示を仲間にもすぐ話してしまう。私たちはお互いを認め合えるけれど、お互いを知っていなければならないという「平等」に意固地になりすぎた。綺麗な仲間になるために壁を壊しすぎて、誰かの傷に気づけなくなってしまった。



私たちはあまりにも贅沢になりすぎたのかもしれない。


もう何が言いたいのか自分でも分からなくて、何かに泣きついたらもっと自分が惨めになる気がしていて、誰かに相談したら変な形で広まる気がしていて、今日も仮面をかぶって生きている自分が滑稽に感じられた。


でも夜がくれば眠くなるしTwitterのトレンドは気になるし、暑いとずっとアイスを食べていたいし、タスクから逃げ続けると罪悪感が生じる。誰かとの会話が楽しくないわけじゃないし、小さな望みを口にすれば叶うかもしれないという希望もある。



私はまだ、死ぬことができていない。贅沢になりすぎたかもしれないのに、心が死ねていないのだ。





また1週間後に会いましょう。熱中症には気をつけて。