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Review17 ヤマブミ 後編

前編からの続き。

 さて『残照の頂』は、『山女日記』に比べると少し長い中編が並ぶ(『山女日記』が短編8編に対し、『残照の頂』は中編が4編)。そして1編(「北アルプス表銀座」)を除いて、メインキャラがダブルになっている。視点がふたつある構成だ。それぞれのキャラクターにそれぞれの事情があり、互いに交錯しながらあるいは前半と後半で入れ替りながら、話が進んでいく。時には「山岳写真」でつながった年齢の違うふたり。時には母娘。時には女友達。

 『残照の頂』のタイトルは「北アルプス表銀座」という話の中に出て来る。この作品は、女性ふたりと男性ひとりの三角関係を孕む友達同士がメインになっている。そしてこの作品だけ、視点はひとつだ。

 「北アルプス表銀座」は、シリーズのほかの作品と比べて異質だ。謎めいているのだ。山にまつわる不思議な話は結構聞くし、文学作品や民俗学的作品もあるけれど、湊さんの作品にはほとんど「不思議」や「怪異」などは出てこない。むしろリアリティに満ちている。しかしこの作品だけは毛色が違う。

 大学で音楽を学んでいる三人。ひとりは美しく表現力に長けたヴァイオリン専攻の女性。ひとりは物語の語りをつとめる声楽の女性。ひとりはどこか女性的な雰囲気を持った、山の魅力に二人を引き込むピアノ専攻の男性。

 男性が、行方をくらます。死んだのか、生きているのか、それすら明示されない。名前も男性の名前だし、男の子という表記も出てくるのだが、実は性別さえ怪しい(と私は思った)。

 なんだ、私たち、きれいな三角関係じゃん。

 と、声楽の女性が言う通り、彼らの関係は三角=山そのものでもある。
 男の子が不在になり、女の子がふたりで山に登る。ふたりは少々いびつになってしまった三人の関係をなんとかバランスしようとしている。

山でなら、キスしたり、セックスしたりしなくても、命を預け合えるほど信頼し合えるし、孤独じゃないと思えるし、この結びつきは永遠だと信じられるのに。(中略)どうして、山での関係を、地上で続けられないんだろう。地続きの場所なのに、どこに境界線があるんだろう。

 ヴァイオリンの女の子が言う。

 これと似た表現は、他の作品でも幾度も出てきた。地上にいるときと、山にいるときは「関係性」が変わる、ということ。男女ということがどうでもよくなるほどの信頼関係ができる、山の魔力。デートの約束より、山を優先させたくなる、その磁力。

 『山女日記』の中にも、こういう表現が出てきた。

 二人は友情を深めたのではなく、仲間になった。その表現がぴったり合う。

 仲が微妙だった三人の職場の同僚。ひとりが当日いけなくなったのだが、残る二人は登山に行き、山から帰ってきた後妙に仲良くなり、いけなかったひとりが若干嫉妬めいた気持ちを抱く場面だ。

『残照の頂』は『山女日記』以上に、人間の関係や生き方に食い込む、山の不思議な力が強く働いている物語になっている。

『山女日記』は山の醍醐味を描く軽いジャブ。山との深いかかわりよりも、登る人間たちの群像や関係性、心理的な葛藤と昇華の描写が多い(これがまた鋭くて唸る)。『残照の頂』はボディに深く響くパンチ。なぜ登るのか、山の魅力とは何かについて掘り下げている(山だから積み上げている?)感じだ。そしてまた、かつては「山男に惚れるなよ」と言って「男は登る人、女は待つ人」のような時代があったことに、やんわりとNOを突きつける。惚れるなよ、というなら「山女」にも同じことだ。山には男女の枠を外してしまう装置があるらしい。

 人は人にではなく、山に惚れてしまうのだな。
 二冊を読んで、そう、思った。
 かつて日本人は、山を神と崇めた。
 今も人は、山に登る。明確な理由などないままに。

 もし、湊かなえさんの真骨頂であるミステリの雰囲気がないからと、この二作品を敬遠されている方がいらっしゃったら、いやいやお待ちなさい、と言いたい。山はこの世に残された壮大なミステリだ。景色がいいとか達成感とか解放感とか、それだけでは説明のしようがない。命のやり取りもあればスピリチュアルな癒しすらある。湊さんはその宇宙的ミステリを描いている。

 ところで実は私はかつて富士山に登ったことがある。
 あんなに「山なんか」と思っていた私が、初めてトレッキングシューズを買った。ハタチごろのことだ。

 『山女日記』の「金時山」という作品では、どうせ登るなら日本一の山である富士山に登りたいという女性が、なかなか、富士山に行くことができない。周囲の人、特に経験者が「結構大変だし、そもそも登る魅力を感じない」と言って別の山を勧めて来るからだ。「日本一の山に登ってみたい」というただそれだけの願望が叶えられないことに主人公は苛立つ(そんな主人公が満足し納得する結末が用意されている)。

 なるほど。私の長年の謎がひとつ解けた。
 山なんか、という私の気持ちが、富士山に登ったら少しは変わるんじゃないか、と当時期待していた。
 しかし、登ってはみたが、山の魅力はわからないままだった。ただ「富士山に登ったぞーぃ」と言ってみるためだけの、なんなら就活の材料や「バッジ」的な意味合いしかなかったことに、この本を読んで改めて気づいた。

 富士登山は初心者に楽ではなかった、もちろん。大変だった。途中でリタイヤした人も何人も見たが、若さだけで押し通した。得られたことが何もないわけではない。でも、この本に出てくるように登山を楽しむための要素が、そこには何もなかった。

 この本に出て来る登山。それは、地図を見てルートを考える。天候を睨む。変わっていく植生や花々を愛でる。途中で休んだり宿泊したりしながら(美味しそうなコーヒーやお菓子がまた魅力的だ)、同行者や身体と会話する。気づいたら本音で話している。苦しい、しんどい、と言いながら、膝を奮い立たせて一歩を踏み出す。それが楽しい。そんな、登山だ。

 富士山は、標高が高すぎて景色は一辺倒。瓦礫みたいな赤土と石ころだらけだ。しんどい、苦しい。それはある。でもルートが決まっている富士山は、人気すぎて人が多く、列をなしてぞろぞろ歩くだけの山だった。本にもそう書いてあり、確かに、その通りだった。

 新型感染症で行動が制限される中、交わされる女友達の手紙の往復で『残照の頂』は終わる(「武奈ヶ岳・安達太良山」)。かつて一緒に山に登った友人。住む場所も京都と福島とに離れ、人生の荒波に翻弄され、いつしか距離ができていた友人同士が、それぞれに近隣の山に登ったことを手紙にしたためる。二人の思い出と、自分の半生とともに。いつかまた、ふたりで登ることに思いを馳せながら。何千メートル級の峰を縦走するような登山ではなくても(武奈ヶ岳も安達太良山も日本二百名山)、ふたりの心は故郷の山によって、開かれてしまう。

 読後、自分の故郷の山を思い浮かべた。「山なんか」。額縁程度にしか思っていなかった、その額縁に、私はどうやら守られていたらしいことに気がついた。新幹線に乗っていく必要もない。登る必要もないほど近くにいた、というのは、実は幸せなことだったのかもしれない。その山々は古代から土地の人々とともにあり、宇宙の真下にある。

 ふたつの本には「山なんか」という人に苛立つ登山愛好家の皆さんの姿がしばしば描かれていた。言葉で山の魅力を伝えるのは難しい。でもその難しい偉業を、湊さんは軽々と成し遂げている。なにしろ私も、額縁を外されてしまった。今は、いつかどこかの山を登ってみたいとすら、思っているのだから。

 なかなかに骨太な二冊だ。
「山なんか」の人にも「山こそは」の人にも、ぜひお勧めしたい。

※ヤマブミは、「山踏み」(古語)。山中を歩くこと。霊験ある山々の社寺を巡拝すること。またはその人。

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