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福島には30年後の日本の未来がある。

最近、読んでいる本や見聞きする情報の中で、「身体性」という言葉によく出合うようになった。身体性に関する様々な見解に触れながら久しぶりに感じるところがあったので、ここにどうしても書いておきたいと思い、今PCに向かっている。

私にとっての身体性

立派な肩書を携えた賢そうな人たちの言葉を聞くとき、昔から私がまず思うのは「この人、今日なに食べたのかな?」だ。身奇麗にして人前に出て、どこかの本か論文か、はたまた誰かの受け売りかでインプットした小洒落たワードでプレゼンテーションをするその姿の奥に、どんな暮らしがあるのだろうと想像する。

別に正直なんだっていい。好きなものを食べて飲んで着て暮らしてもらえればいいのだけれど、仕事と同じように、もし彼らが自分自身の暮らしにも誠実に向き合っていたとしたら、私はその人を信用に値すると感じるだろう。

身体性とは私にとってつまるところ、そういうことだ。

「衣食住」を通しての実践と手触り

この過疎地と言われる土地に越してきてから、丸二年が経った。
築40年の断熱性能ゼロの家に暮らしながら、春夏秋冬の気温の変化を肌で感じ、一面の田園風景で目と心を落ち着かせ、いい季節には庭の手入れと、小さくはじめた畑の世話をしている。しかし一方、ここでの平和な暮らしの中で発見したのは、自分がこのたった十数年の都会生活の中で、いかに自らの身体感覚を衰えさせてきたかということだった。
私の普段の仕事はほぼPC上で完結する。やり取りは仕事もプライベートも含めて、全てスマホだ。タイピングのスピードとスキルだけは格段に上がったが、それと同時に失われている筋力、感覚、もろもろの感性があった。田舎暮らしに戻って、そのことに初めて気づいたのだ。

土を耕すとき、人は道具を使う。シャベルを握り、土にさしてすくい上げる。あるいは鍬を持ち、軽く振り上げて土を鋤く。草取りに至っては、素手で行うことも多い。地表に表れた草をつまんで引き抜くとき、手のひらにはぐっと力が入り、普段の指先だけのPC作業では決して動かすことのない、その先の腕の筋肉までもが連動する。

ここに越してきた一年後、私たち夫婦は宿を開業し、自分たちの暮らす家の一角をお貸しするということをはじめた。今でもたまに商いを始める前の走り書きやメモを見返すことがあるが、その時に気がつくのは、やっぱり昔から私たちの思考は「身体性」と深く結びついているということである。特にその身体性を「衣食住」というコンテンツに落とし込んで実践することが、私たちの(特に私の)震災後からのテーマだった。

「絶対神話」は存在しない

なぜそこに行きついたかと言えば、東日本大震災を経て体感した「絶対神話」に対する疑念が、その大きな要因としてある。「安心・安全・明るい未来のエネルギー」では“なかった”ことが証明された、一連の福島の原発事故。その後の福島県および周辺地域の住民は、専門家でさえも匙を投げたこの問題に、身ひとつで向き合わなくてはならなかった。つまるところ、自分たちの身の回りを本当の意味で「安心・安全」にして、どう「未来」につなげていくかを、自分たちで考えなければならなくなったということである。
一個の人間が目に見えない恐怖に立ち向かうとき、一体どんな方法が残されているだろうか?その解のひとつが「衣食住」の中にあると、当時の私は強く思った。

先に述べたような「身綺麗プレゼン人間」を見て感じる私の違和感は、だからこういった背景に基づいている。口だけなら何とでも言える。大事なのは「いかに手を動かしているか」ということ、つまり、いかに“実践しているか”ということの方なのだ。

他人の言う「幸せ」に基準を設ける人は、不幸である。


30代も半ばを超え、周りの友人の多くが結婚・出産を迎えている中で、ふとこのことを感じることがある。特に、「ある程度よい(と思っている)企業」で「そこそこ良い(と言われている)立地」に「ちょっと良さげな(とされている)家を」を買う、あるいは借りて、それなりの暮らしを築いている人たちを見ていると、そこはかとない違和感が込み上げてくる。
それが本当に自分に必要だと思っているならまだ良いが、「人が良いと言っているから」という理由をベースに選択がなされている(ように見える)場合には、正直、驚きを通り越して不安になる。「あなたの幸せって、他人に依存しているってことですか?」と。

これを原発問題にあてはめてみると、よく分かる。
福島県の浜通りの住民であった私たちにとって、東電あるいは原発関連の仕事に就くということは、イコール「高給取り・食いっぱぐれがない」選択とされていた。事実、両親ともに東電社員だったご近所さんなどは「あそこは二人揃って東電だからね」と、周りの羨望と若干の妬みの対象にされていたくらいである。つまりは浜通りの人間にとって、そこで働くことが一種のステータスとなっていたのだ。しかし、である。ご存じの通り今となっては、「原発関連で働いていた」、ましてや「東電社員だった」という事実は、安易に口にしてはならない重々しい過去となってしまった。
人や世間がささやく「良さ」なんて、しょせんはこんなものだ。今、この瞬間に「良さげ」に見えている仕事も家もステータスも、すべては一瞬のうちに逆転する可能性が大いにある。こんなあまりにも不確かで、アテにならないものを軸に幸せを手に入れたいと考えているとしたなら、残念ながらどうかしているとしか思えない。

原発依存の構造から抜け出せない福島。なぜか?

震災の後しばらく、福島県には様々な支援金や補助金が投入され、金だけでなく様々な専門家や支援団体、あるいはスタートアップ起業が立ち現れた。その有象無象を眺めていると、これもまた原発の時と同じ現象にすぎないということがしだいに分かってくる。カネのあるうちは入れ食い状態の被災地の事業や取り組みも、なくなった途端に頓挫する。都会から来た身綺麗な生活感のない専門家や起業家が、あれこれとそれっぽいことを述べ、新幹線に乗って帰っていく。自分たちの取り組みが実際にその土地を良くしてきたかと聞かれて、はっきりと“YES”と答えられる人が、どれほどいるだろうか。
しかしこれは震災直後に限ったことではない。浜通りを中心とした、いわゆる被害の甚大だった原発付近の「12市町村」には、今でも一桁違いの補助金がじゃんじゃか流れ込んでいるそうだ。羽振りがいいので、飛びつく企業や団体も多い。しかしその取り組みを少しでも覗いてみると、「こんなことのために金を使っているのか」と疑問視せざるを得ないものばかりなことに気づく。つまりは「原発」が「補助金」に姿を変えただけの現状が、未だに繰り広げられているということなのだ。

どうしてこんな茶番が、しかも十年も経たずして繰り返されているのだろうかと考えたとき、やはりそこには「考える力の乏しさ」があると思わずにはいられない。あの原発事故という悲劇を経験してもなお、私たちは何が“本当に”安心で安全で、未来に残せるのかを考えてこなかったということなのだろうか?そうだとしたら、あまりにも辛すぎる現実だ。

「安心・安全」な未来に続く選択を、私たちは実践していく。

福島県の小さな過疎地に越してきて、私たちはここでの暮らしを少しずつ築いている。思い描いていたようなことばかりではないし、桃源郷を夢みて移住したわけでもないのに、現実とイメージとのギャップに驚くことも多々ある。しかし一つ言えるのは、私たちの発言や主張は、すべて「実践に基づいている」ということだ。日々手を使って料理をつくり、自分たちの手を動かして家を改修し、土に触れて畑を耕し、自然の厳しさも豊かさも肌で感じている。いきなり大きな変化は起こせないことを知っているが、しかし同時に、日々の小さな実践がいつの日か揺るぎない大きな変革になることにも気づいている。
私たちのビジョンは、そう遠くない未来に向かっている。それは私たちの子ども世代が、この福島と自分の生まれ育った土地を「誇りに」思ってくれることだ。「誇れる故郷をつくる」―― これが私たち夫婦の昔も今も変わらない不変のテーマで、そのために自分たちの良いと思う選択に基づきながら、日々の「衣食住」を実践しているのだ。本当の意味での「安心・安全・明るい未来に続く」生き方とは、こうゆうことだと思う。
そしてこれは、福島や被災地と言った特殊な環境下だけに適用することだと捉えて欲しくない。今、急速に衰えつつある日本という国に住む私たちは皆、遅かれ早かれ「どう生きるのか」というクルーシャルな問いに向き合わなければならなくなる。その時に「人が良いと言っている方」という判断基準しか持っていないとしたら、その人の未来はおそらく、明るいものではないだろう。
どうか私たち福島県の先例を忘れないでいて欲しい。そしてこれからの福島の行く末も、注意深く見ていて欲しい。

guesthouse Nafsha
オーナー・佐藤美郷

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