見出し画像

温故知新(40)ロドス島 伊吹山 岩屋岩蔭遺跡 沖の白石 平出遺跡 大平山元遺跡 上野原遺跡 サムハラ神社 空海 フルリ サモトラケのニケ 前方後円墳 千手観音

 ロドス島はヨーロッパ、中東、アフリカを結ぶ要衝に当たり、建築的、文化的、言語的に多くの異なる特色をもっていて、島には紀元前4000年頃には人が住んでいたと推測されています。 ロドス島で最大の都市であるロドスの街は、古代から港湾都市として栄え、世界の七不思議の一つの「ロドス島の巨像」があったことでも知られています。エラトステネスの前にアレクサンドリア図書館の館長だった「ロドスのアポローニオス」は、ロドス島の出身ではありませんが、イアーソーンとアルゴナウタイの航海の物語である『アルゴナウティカ』の作者として知られています。ロドス島の中世都市は、世界遺産に登録されていて、ロドス騎士団のグランドマスターの宮殿などがあります。

 アララト山とロドス島を結ぶラインの近くにチャタル・ヒュユクがあり、スサとつながっているスールとアテネ、エフェソス遺跡とメンフィスを結ぶラインはロドス島を通ります(図1)。ロドス島もサントリーニ島と同様に複数のレイラインの交点にあることから、エーゲ文明の重要な拠点であったと推定されます。スールの位置にかつてあったティルスは、フェニキア人の造った都市国家のなかでも最大級で、アレクサンダー大王に対して唯一抵抗したフェニキア国家でした。

図1 アララト山とロドス島を結ぶラインとチャタル・ヒュユク、スールとアテネ、エフェソスとメンフィスを結ぶラインとロドス島

 発掘調査によって縄文時代早期の遺物が出土している岩屋岩蔭遺跡(金山巨石群)と琵琶湖沖にある豊玉姫命と関係する「沖の白石」を結ぶライン上には伊福部氏(尾張氏)と関係する伊吹山がありますが、岩屋岩蔭遺跡と沖の白石をそれぞれロドス島と結ぶライン上には、賀茂神社(小浜市)や加賀国二宮菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)(加賀市)があります(図2)。

図2 ロドス島と岩屋岩蔭遺跡(岐阜県下呂市)を結ぶラインと菅生石部神社(加賀市)、岩屋岩蔭遺跡と沖の白石を結ぶライン、沖の白石とロドス島を結ぶラインと賀茂神社(小浜市)、ロドス島と伊吹山を結ぶラインと気比の松原

 菅生石部神社の社伝によれば、用明天皇元年(585年)に、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたことに始まるといわれています。賀茂神社は、古代祭祀の姿を止める「神籬、磐境」を先住神(上宮)とし、「芽立ち神事」といわれる「上宮神事」は、土中に埋めた色々な木の芽を入れた木箱を掘り出し、その年の豊作を占うというものだそうです。これは、木の神(須佐之男命)の原型ではないかと思われます。また、ロドス島と伊吹山を結ぶライン上には、ケーペウス(ケフェウス)と関係があるともいわれる氣比神宮1)の神苑だった気比の松原があります。イルカは、アポロン、ポセイドン、ディオニュソスなどの聖獣なので、『古事記』仲哀天皇の条にある、気比大神の由来や、イルカが食料として書かれているのは、創作されたものと推定されます。伊吹山には、植物の固有種が多くあることが知られていますが、ロドス島と関係があるかもしれません。伊吹山に多く分布する「イブキジャコウソウ」は、ヨーロッパ原産の「タイム」の1種です。

 岩屋岩蔭遺跡と「石の宝殿(いしのほうでん)」で知られる高砂市の生石神社(おうしこじんじゃ)を結ぶラインは、沖の白石の近くを通ります(図3)。これらは、巨石で共通し、「石の宝殿」の巨石は明らかに加工されています。生石神社は大穴牟遅命と少毘古那命を祭神としていますが、出雲大社と長山稲荷社のある橿原神宮を結ぶラインは生石神社の近くを通ります(図3)。

図3 岩屋岩蔭遺跡と生石神社(高砂市)を結ぶラインと沖の白石、出雲大社と橿原神宮を結ぶラインと生石神社

 「石の宝殿」は、『播磨の国風土記』に「聖徳太子の時代に物部守屋が作った」と書かれていますが、守屋は、敏達天皇元年(572年)に、敏達天皇の即位に伴い、大連に任じられています。「石の宝殿」が作られた時の「聖徳太子」は用明天皇と推定されます。「石の宝殿」の巨石は500tと推定され、バールベックのジュピター神殿の土台に使われている「トリリトン」650t~970tに近い重さです。これらのレイラインは、物部氏が縄文人や皇統とつながっていることを示していると推定されます。

 沖の白石と岩屋岩蔭遺跡を結ぶラインは、沖の白石と八海山神社(栃木県矢板市)を結ぶラインと重なり、このラインは男体山(栃木県日光市)を通り、ラインのほぼ中央に平出遺跡 縄文の村(長野県塩尻市)があります(図4)。平出遺跡は、縄文早期から晩期にかけて痕跡をたどることができ、中期 ( 約4,500年前 ~ 5,500年前 )に最も栄えたようです。 平出遺跡の南側の集落には伊夜彦神社が鎮座していますが、当初は「平出の泉」の水神を祀る神社で、後に彌彦神社(新潟県弥彦村)を勧請して現在の社名に改めたようです。

図4 沖の白石と八海山神社を結ぶラインと伊吹山、岩屋岩蔭遺跡、平出遺跡 縄文の村、男体山

 諏訪信仰発祥の地と伝えられる諏訪大社上社 前宮とロドス島と結ぶラインの近くに諏訪大社上社 本宮、平出遺跡 縄文の村、穂高岳があり(図5)、このラインは、三戸大神宮と沖縄市を結ぶラインと重なる沖の白石とヒスイ海岸(富山県下新川郡朝日町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。沖の白石とヒスイ海岸を結ぶラインの近くには洞のカツラ(白山神社)があります。多くのレイラインが平出遺跡を通ることから、平出遺跡は縄文時代の重要な村だったと思われます。

図6 諏訪大社上社 前宮と沖の白石、ヒスイ海岸を結ぶラインと洞のカツラ(白山神社)、諏訪大社上社 前宮とロドス島と結ぶラインと諏訪大社上社 本宮、平出遺跡 縄文の村、穂高岳、

 妙法ヶ岳の山頂に鎮座する三峯神社奥宮とロドス島を結ぶラインの近くには、諏訪神社(秩父市中津川)、諏訪山(群馬県多野郡上野村)、信濃国分寺(長野県上田市)、白馬岳などがあります(図6)。群馬県南部にある諏訪山は、かつて信仰の山でした。信濃国分寺を通るレイラインが知られていますが、信濃国分寺のある上田市は、古より信濃国の政治・文化の中心として栄え、信濃国分寺跡からは、唐草文や蓮花文の瓦が発掘されています。境内にある三重塔は、現存する国分寺の塔の中で最も古いもので、国の重要文化財に指定されています。信濃国分寺の近くにある生島足島神社の御朱印には大八洲真中と書かれているので、守矢家の家紋の「丸に十字」が「へそ」を表していると推定されることと整合します。諏訪は、古代日本の中心とされていたことから、国譲り神話のタケミナカタとタケミカヅチが争い、タケミナカタが信濃の国まで追いつめられたというのは創作と思われます。

図6 三峯神社奥宮とロドス島を結ぶラインと諏訪神社(秩父市中津川)、諏訪山(群馬県多野郡上野村)、信濃国分寺(上田市)、白馬岳

 岩屋岩蔭遺跡は、大平山元遺跡と上野原遺跡とほぼ等距離にあり、これらを結ぶライン上には、剣山や白馬岳があります(図7)。大平山元遺跡と上野原遺跡を結ぶラインは、岩屋岩蔭遺跡とロドス島を結ぶラインとほぼ直角に交わります(図7)。レイラインが、大阪を通るのは、古くから重要な土地だったためと思われます。

図7 岩屋岩蔭遺跡と大平山元遺跡、上野原遺跡を結ぶラインと剣山、白馬岳、岩屋岩蔭遺跡とロドス島を結ぶラインと菅生石部神社

 和歌山県紀の川市猪垣にある氣比神社と大平山元遺跡を結ぶラインの近くには「沖の白石」があり、氣比神社と上野原遺跡を結ぶラインの近くには津峯神社があります(図8)。上野原遺跡と大平山元遺跡を結ぶラインの近くには、千手観世音菩薩を本尊とする愛媛県大洲市の金山出石寺(しゅっせきじ)があり、大平山元遺跡と上野原遺跡を結ぶラインと氣比神社とロドス島とを結ぶラインが、ほぼ直角に交差する地点の近くにサムハラ神社 奥の宮(津山市加茂町中原)があります(図8)。

図8 氣比神社(和歌山県紀の川市)と上野原遺跡、大平山元遺跡を結ぶラインと津峯神社、金山出石寺、サムハラ神社 奥の宮、沖の白石、氣比神社とロドス島を結ぶラインとサムハラ神社 奥の宮

 サムハラ神社の祭神は、天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神の「造化三神」ですが、サムハラ神社のある地名は「加茂」なので、須佐之男命と関係がある神社だったと思われます。「サムハラ」の由来は、インドのサンスクリットの三跋羅(シャンバラ)からきているともいわれ、「真言」(仏の真実の言葉)、あるいは「仏の定めた戒律」という意味のようです。「三昧耶」もサンスクリットで「約束」、「契約」などを意味するサマヤ(samaya)から転じた言葉とされるので同じ由来かもしれません。数をかぞえる時に、「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう・・・」というのはヘブライ語ともいわれ、「ミツバ」(三葉)あるいは「ミツワ」(三輪)は、ヘブライ語で「指針」を意味し、ミツヴォットは「戒律」を意味するので、「三跋羅」や「三昧耶」と意味が似ています。

 氣比神社とロドス島を結ぶラインの近くには吉備神社(姫路市)があります(図9)。氣比神社と吉備神社と津山市加茂町のサムハラ神社がつながっているので、木村鷹太郎氏が、「吉備」の由来は「氣比」で「ケヒウス」1)としていることと整合します。

図9 氣比神社とロドス島を結ぶラインと吉備神社(姫路市)

 吉備神社は元は、伊邪那岐神社創建の際に、用いた錐を納め祀って錐神社(きりじんじゃ)と称せされていたようです。吉備神社の祭神は吉備武彦命(仲哀天皇と推定)で、後神功皇后の時代に、吉備氏が播磨を支配したので、氏神に祀られたといわれています。吉備神社の境内には稲荷神社があり、神殿左右には厄神の神様とマムシ(予防)の神様を祀る小さな社があるようです。「厄神」と「マムシ」は、「牛頭天王」と「棚機津女」かもしれません。牛頭天王は疫病から身を守る際に祈願をかける存在として信仰されましたが、一方では疫病をもたらす存在ともされていました。

 ロドス島とピラミッド説のある広島県庄原市の葦嶽山を結ぶラインの近くには、三瓶小豆原埋没林公園賀茂神社がありますが、ラインを延長すると熊野神社の二本松敷島神社(しきじまじんじゃ)を通り、徳島県阿南市の橘町に到達します(図10)。敷島神社は『阿波志』に「神戸八幡祠 敷地村に在り 又 伊弉諾 伊弉冉二祠あり 或は曰く天水沼間比古 天水塞比賣 二神」とあるようで、橘湾周辺は、黄泉の国から逃げ帰った伊弉諾尊がみそぎをした「竺紫の日向の橘の小門」と推定されています2)。橘湾の西にある舎心ヶ嶽(図11)は、弘法大師空海が若い頃修行をした聖地です。

図10 ロドス島と徳島県阿南市橘町を結ぶラインとさんべ縄文の森、賀茂神社、葦嶽山、熊野神社、敷島神社
図11 ロドス島と徳島県阿南市の橘町を結ぶラインと舎心ヶ嶽、橘湾周辺の神社

 丹生川上神社 中社と幣立神宮を結ぶラインは舎心ヶ嶽や佐伯市を通ります(図12)。空海の父は直を賜姓された佐伯田公で、「佐伯直」は景行天皇の皇子・稲背入彦皇子の後裔氏族なので、空海は景行天皇の後裔と推定されます。佐伯市は、佐伯藩の城下町として栄えましたが、鎌倉時代に大友家が豊後に国入りした際、佐伯荘を支配していた地頭の大神姓佐伯家は、大友家重臣に列して佐伯を任されていました。空海は大神氏(おおがし)と関係があると思われます。大神氏は大分県の大野川及び大分川の流域の大野郡直入郡景行天皇の日代宮があったと推定される海部郡も版図としていました。

図12 丹生川上神社 中社と幣立神宮を結ぶラインと舎心ヶ嶽、佐伯市

 舎心ヶ嶽の近くには、仁宇(にう)という地名があり、徳島県那賀郡那賀町仁宇学原に、元は丹生神社だった八幡神社があります(図13)。このことから、空海は丹生氏と関係があると推定され、また、八幡神社があるのは、景行天皇が倭建命で八幡神と推定されることと整合します。

図13 図12のラインと太龍寺山、仁宇、八幡神社(旧丹生神社)

 チャタル・ヒュユクの女神の椅子のひじ掛けにはライオンの頭部がついており、ツタンカーメンの王座に似ています。ツタンカーメンは、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1332年頃 - 紀元前1323年頃)で、スカラベのパワーストーン(リビアングラス)は、隕石衝突によって生成されていたという研究報告があります。また、ツタンカーメンの鉄剣は隕石の鉄で作られていたことがわかっていますが、この鉄剣は、ツタンカーメンの祖父が、メソポタミア北部にあるフルリ人の建てたミタンニ王国から贈られたものであるという記録があり、柄の部分からは「しっくい」が検出されているようです。フルリ人達が建てた国々の中で最も大きく、有力であったのがミタンニ王国でした。

 フルリ人は、紀元前25世紀頃から記録に登場し、北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していました。下記のようにフェニキアの先住民はフルリ人だったのではないかと推測する人もいます。フルリ人は冶金について高い評価を得ていて、シュメール人はフルリ語の中から銅を意味する単語を借用したようです。

Kinahnu(キナフ)はフルリ語で紫染料の地と言う意味です。
フルリ人≒ホリ人≒プル人。
フェニキアの先住民はフルリ人だったのではないかと推測されます。

出典:龍族を探して 物部を探して 饒速日命 ③

 現在知られているフルリ人の根拠地は、アマルナの手紙(紀元前14世紀)に記載されているスバル(Subar)の地です。竹内宿禰は、成務天皇(倭建命)と同世代の人物と推定されますが、正統竹内文書では人類の故郷の星の名前がスバルであるとしているようです。天照大神が身に着ける八坂瓊五百津御統(やさかにのいほつのみすまる)の「すまる」は一つにまとまる意で、多くの玉を緒に貫いたものですが、『日本星名辞典』によると、古来「すまる」とよばれたスバル星は、『古事記』にも登場する「御統」から出ているようです3)。大日靈貴を祀る天石門別八倉比売神社の奥ノ院に五角形の石積みがありますが、スバルはカペラ(ぎょしゃ座)がつくる大五辺形を従えているので、天照大神(大日孁貴)は五角形と関係があるようです3)。

カペラには、『すばる』の名で有名な、おうし座のプレアデス星団とほぼ並んで見えるので、日本には『スマルノアイテボシ』など、プレアデス星団と対比する和名が各地に伝わっています。道内には、後志地方の積丹町に、サキボシやウヅラノサキボシ(ウヅラはプレアデス星団のこと)という呼び名が伝えられていると『日本の星名辞典』(北尾浩一著・原書房2018年)で紹介しています。

出典:いぶりの☆星空散歩 https://kamokenyamafc.blog.fc2.com/blog-entry-186.html

 奥ノ院の五角形の石積み(図14左)や摂社の大泉神社にある「天の真名井」と呼ばれる五角形の井戸の形は、ぎょしゃ座の大五辺形(図14右)の逆像(鏡像)と似ているように思われます。西野雅人氏の『古代上総国府の北斗祭祀』によると、千葉県市原市の稲荷台遺跡にある北斗状に並ぶ古墳(円丘)は、北斗七星の逆像(鏡像)になっているようです。平城京を中心とするレイラインの五芒星も知られていますが、こちらは陰陽道の五角形と関係があるかもしれません。

図14 左:天石門別八倉比売神社の奥ノ院にある五角形の石積み 出典:「邪馬壱国は阿波だった」 新人物往来社3)
 右:ぎょしゃ座の五角形(右下:カペラ)出典:暦生活https://www.543life.com/moon/post20201201.html

 イシュタルと同一の神だと思われるフルリ人の祀った太陽女神シャウシュカは、ライオンの上に立ち、2人の侍女を連れた有翼の人の形で描かれています。フルリ人がニネヴェを支配していた時代にはシャウシュカの重要な神殿がありました。紀元前25世紀頃から北メソポタミア付近に居住していたフルリ人の円筒印章にはしばしば翼のある人間が描かれているので、余市町にあるフゴッペ洞窟の壁に刻まれた「有翼人」は、イカロスを表したものかもしれませんが、シャウシュカと関係があるかもしれません。

 よく知られている翼のある女神像としては、ルーブル美術館が所蔵しているサモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発見された「サモトラケのニケ」があります。この女神像にはパトスの大理石とロドス島のラルトス石(台座)の2種類が使われています。紀元前190年頃の制作とも推定され、一説によると、ロドス島の人々が、シリアのアンティオコス3世との戦いで勝利できたので、勝利の女神ニケに感謝して立てた像とも推定されています。

 ティルスがあったスールとアテネのパルテノン神殿を結ぶラインは、ロドス島のリンドスの近くを通り、パルテノン神殿とキプロス島のオリンポス山を結ぶラインはロドス島の近くを通ります(図15)。「サモトラケのニケ」の作者は、ロドス島の古代都市リンドスの工房で創作活動をした彫刻家ピュトクリトスともいわれています。紀元前2世紀に古代ギリシャで制作されアテネで見つかった、十一面観音像と類似性のあるアフロディーテ像もニケ像と同じような薄い衣をまとっています。もしかすると、アテネのアフロディーテ像とニケ像の作者は同じかもしれません。ニケ像も少し左肩が下がっているので、アフロディーテ像と同じように左手に水瓶を持っていたのかもしれません。

図15 スールとパルテノン神殿を結ぶラインとロドス島のリンドス、パルテノン神殿とキプロス島のオリンポス山を結ぶラインとロドス島

 キプロスの「水瓶」(紀元前1000-800年)の上部の形は、箸墓古墳の前方部の形と似ています(図16)。これらに関係があるとすると、箸墓古墳の被葬者と推定される豊玉姫命が、水瓶を持つ十一面観音に見立てられていると推定されることと整合します。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、契約の箱に収められていたユダヤ三種の神器の一つであるマナの壷を形取ったものではないかともいわれ、様々な古墳の形も壺形説を採ればある程度の説明ができるといわれています。 

図16 左:キプロス「水瓶」紀元前1000-800年 出典:アーティゾン美術館https://www.artizon.museum/collection/art/21224
右:箸墓古墳墳丘復原図  出典:「古墳の被葬者を推理する」中央公論新社4)

 志村史夫氏は著書で、田久保晃氏の著書『水田と前方後円墳』を引用し、「巨大な前方後円墳は、その周濠に貯めた水によって地域の水田を灌漑することを目的に造られた」と推定しています5)。そうであれば、初期の前方後円墳が「水瓶」を模っている理由がわかります。前方後方墳については、中国の天神地祇の影響で、国津神の治める地は方形と考えていたことによると思われます。

 クノッソス宮殿とアララト山を結ぶラインは、リンドスやチャタル・ヒュユクの近くを通り、リンドスは、このラインとアレクサンドリアとイズミルを結ぶラインの交点の近くにあります(図17)。リンドスには、紀元前7世紀に、七賢人の一人のクレオブゥロスが生まれています。クレオブゥロスは、「節度が最善である。幸運に恵まれても傲慢であってはならない。逆境に陥っても卑屈になってはならない。」と言ったとされています。

図17 クノッソス宮殿とアララト山を結ぶラインとリンドス、チャタル・ヒュユク、アレクサンドリアとイズミルを結ぶラインとリンドス

 ニケ像が見つかったサモトラキ島とロドス島を結ぶライン上には、アテネ神殿のあるラトモス・ヘラクレイアの古代都市があります(図18)。ラトモスの遺跡では、紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけての陶器の破片が見つかっていることからヘラクレイアよりも早く設立されたと推定され、また、古代の資料や碑文から、遅くとも紀元前4世紀末には放棄されたと考えられています。

図18 サモトラキ島とロドス島を結ぶラインとラトモス(Latmos Antik Kenti Kaya mezarlan)の古代都市

 ニケはギリシア神話に登場する勝利の女神ですが、アテナの随神で、アテナの化身とする場合もあるようです。フルリ人がロドス島と関係があるとすると、サモトラケのニケは、太陽女神シャウシュカやシュメールのイナンナ(イシュタル)とも同神と思われます。イナンナのシュメール語の別名は「nin-edin」(エデンの女主人)で、シュメール時代の粘土板には、両手に鎚矛を持ち、背中に翼の生えた天の女主人として描かれています。

 ラトモス島の岩窟から発見された先史時代の岩絵は、女性の乳房と定義され、同様な岩絵はチャタル・ヒュユクの壁画にも見られ、数千年前に存在したと考えられているラトモス島の豊穣信仰に関連しているとされています。滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡から出土した国内最古級の約13,000年前の土偶は、胴体の上半身で乳房が強調されています。滋賀県東近江市永源寺相谷町にある熊原神社メンフィスを結ぶラインの近くには、多岐理比賣命を祀る奥津嶋神社(滋賀県近江八幡市沖島町)や眞名井神社(籠神社奥宮)があります(図19)。眞名井原一帯は縄文時代から神聖な地と考えられ、「天の眞名井の水」は御神水で、天村雲命が黄金の鉢に入れ、天上より持ち降ったとされています。

図19 熊原神社とメンフィスを結ぶラインと奥津嶋神社、眞名井神社(籠神社奥宮)

 フルリ人の陶器の三角形パターンなどの幾何学模様は、日本の装飾古墳にも見られますが、熊本県山鹿市にある乳房に由来する名前のチブサン古墳やひたちなか市の虎塚古墳の彩色壁画の2つの輪は乳房を表しているのかもしれません。女人高野の慈尊院には乳房型の絵馬が奉納されていますが、古代の豊穣信仰と関係があるのかもしれません。エフェソスは、アルテミス女神崇拝の一大中心地で、この地にあったアルテミス神殿の近くの市庁舎に祀られていた女神の神像が現存しています。この像は胸部に多数の卵形の装飾を付けた外衣をまとっていて、あたかも「多数の乳房を持つ」ように見え、この像は一般に「多数の乳房を持つ豊穣の女神」として知られ紹介されています。「観音菩薩」はイシュタル(イナンナ)の変容した姿であって、「多数の乳房を持つ豊穣の女神」には「千手観音」の「千手」と同じような意味があるとする説もあります(形而下の文化史 「イシュタル」の表象 和久譲治  https://goddess.wakujewelry.com/entry/2019/09/01/182022)。そうすると、水瓶を持っ十一面観音もイシュタル(イナンナ)とつながります。仏教では、観音様は男性でも女性でもなく、悟った姿を表していて、女性のように見えるのは母親のような慈悲を表すためとされています。

 相当数のフルリ人が住んでいたと考えられるイシュワの国名の「馬の国」は、もしかすると「邪馬台国」の名前と関係があるかもしれません。フルリ人の話した言語は、日本語と同じ膠着語で、フルリ語の文章にはシュメール語の表意文字が多く用いられたようです。紀元前13世紀にはフルリ人の全ての国が異民族によって征服されています。異民族はサンスクリット語と関係のある中央アジアのインド・イラン系言語を話したようなので、サムハラ神社は、フルリ人と関係があるかもしれません。空海がフルリ人のDNAを受け継いでいたとすると、空海がサンスクリット語を含む真言密教を2年余りで習得できたことも理解できます。梵語(サンスクリット語)では蘇迷虜(スメル)は「至高」を意味しているようなので(国生みの神々から誕生したスメラミコト)、天皇(すめらみこと)の「すめら」やシュメールやスバルの元の意味は「至高」かもしれません。フルリ人のY染色体ハプログループは天皇家と同じくD系統と思われます。

 伏羲(ふくぎ、ふっき、ふぎ)と女媧(じょか)の兄妹は、大洪水が起きたときに二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったという伝説があり、中国大陸に広く残されていて、類似の説話は東南アジアや沖縄にも多数あるようです。伏羲と女媧は、日本人のルーツともいわれる中国少数民族の苗族(ミャオ族)が信奉した神と推測されています。伏羲がフルリ人と関係があるとすると、伏羲の「洪水伝説」とフルリ人の聖地と思われる「アララト山」がつながります。

文献
1)木村鷹太郎 2001 復刻版 「星座とその神話」 八幡書店
2)三村隆範、土佐野治茂、永井英彰 2019 「邪馬壹国は阿波から始まる」 やまと研究会
3)古代阿波研究会(編) 1976 「邪馬壱国は阿波だった」 新人物往来社
4)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
5)志村史夫 2023 「古代日本の超技術」(新装改訂版) ブルーバックス 講談社