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温故知新(1)豊玉姫命(卑弥呼 倭迹迹日百襲姫命 多岐都比売命 神屋楯比売命 高津姫 須勢理毘売命 淀姫 倭文神 建葉槌命 高良玉垂命 比売大神) メンフィス 下照姫命

 奈良県桜井市の纏向遺跡にある箸墓古墳は、宮内庁により第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定されています。倭迹迹日百襲姫命は『古事記』には、夜麻登登母母曽毘売命(やまととももそひめのみこと)と記されています。箸墓古墳は、前方後円墳で、3世紀中頃に築造されたと推定され、卑弥呼の墓とする学説も多くあります1)。纏向遺跡から発見された大型建物は祭殿跡と考えられ、その寸法は魏尺に則っているようです。大型建物跡の近くで、2010年に桃の種が多数出土し、放射性同位元素による年代測定の結果、西暦135年~230年と推定され、卑弥呼の年代と重なる結果が得られています。

 『日本書紀』の「倭迹迹日百襲姫」は、「やまと・とと・ひ・もも・そ・ひめ」と区切って考えると、「もも」は「桃」と推定されます。倭人伝によると卑弥呼が行っていたとされる「鬼道」は、「邪術(じゃじゅつ)」を示すという説があり、これは呪詛祈祷を行うものでしたから、「そ」は「」の意味で、「日・そ・姫」で「日巫女(ひみこ)」を表しているのかもしれません。清少納言の『枕草子』の「心ゆくもの(すっきりと気分のいいもの)」には「呪詛の祓」が挙げられ、平安時代には、呪詛は一般的なものだったようです。『魏志』倭人伝で、「卑弥呼」という漢字を当てたのは、卑弥呼の霊力を畏れたことによる呪術的な意味があるのかもしれません。しかし、卑弥呼は、鬼道(呪詛)を行っていたのではないと思われます。

 桃の種は、岡山県の縄文遺跡などからも多数見つかっていますが、桃は、古代中国では、長寿の効果があるとされ、「長生の実」「仙果」とも呼ばれ仙薬とし、また、邪気を払う果物としても使われていました。果実などに含まれるビタミンやポリフェノールには、抗酸化活性や免疫力を高める作用があります。また、纏向遺跡などからは、ベニバナ花粉も見つかっています。エジプトのミイラは、紅花染めの布が巻きつけてあったとされ、それは害虫からミイラを守るためと維測されています。ベニバナは、漢方では、乾燥させた花は、血行促進作用がある生薬として用いられる他、灸としても用いられています。ベニバナには抗菌作用もあり、桃やベニバナは医術や邪気を払う呪術に用いられたと推定されます。有効成分は、ベニバナに含まれる天然色素類と推定されます。

 『日本書紀』には、大国主命は、少彦名命と共に、農業などの産業を育成し、人間や動物の病気を治療する医術を広め、鳥や獣や昆虫の災厄を退ける呪術を教え、人々に感謝されたとあります2)。銅鐸は、多くが集落から離れた丘の斜面から出土し、鹿と鳥などが数多く描かれており、吊るして使用され、当時は輝いていたと考えられることから、後者の呪術に使用されていたのかもしれません。

 倭迹迹日百襲姫命は、大物主神(三輪山の神)に仕える巫女で、妻になったと伝わり、『日本書紀』では、大物主は大己貴神(おおなむちのかみ)すなわち、大国主命の和魂(にぎみたま)としています。奈良県桜井市三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)(写真1)は、本殿は設けず拝殿を通し大物主神が鎮まる三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。大神神社とオリンポス山を結ぶラインは、弥生時代の環濠集落の遺跡である唐古・鍵遺跡を通り、ラインの近くに箸墓古墳があります(図1)。

写真1 大神神社と「巳の神杉」
図1 大神神社とオリンポス山を結ぶラインと箸墓古墳、唐古・鍵遺跡、三輪山

 『魏志』倭人伝によると卑弥呼は独身で、男弟にしか会わなかったとされています。巫女と大王との関係は通常の結婚とは異なっていたと考えられ、独身とされたのかもしれません。大物主神が大国主命と一体化し、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だったとすると、大国主命は、邪馬台国の卑弥呼と結婚し、男弟として医術や呪術を卑弥呼から教わって広めたのかもしれません。

 香川県東かがわ市にある倭迹々日百襲姫命を祀る水主神社(みぬしじんじゃ、みずしじんじゃ)とオリンポス山を結ぶラインの近くに「山幸彦と海幸彦」の神話に登場する海の女神の豊玉姫(とよたまひめ)を祀る豊玉姫神社があります(図2)。これは、倭迹々日百襲姫命(卑弥呼)が豊玉姫命であることを示していると推定されます。

図2 水主神社(東かがわ市)とオリンポス山を結ぶラインと豊玉姫神社(高松市)

 『先代旧事本紀』では、須佐之男命の娘である宗像三女神の一柱の多岐都比売命(たぎつひめのみこと、たきつひめ)が、大己貴神(大国主命)に嫁いだとされ、高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としています。『古事記』において大国主神と神屋楯比売命は夫婦で、神屋楯比売命は高津姫と同一神なので、多岐都比売命とも同一神と考えられ、いずれも倭迹々日百襲姫命(卑弥呼)と推定されます。また、大国主命の正妻の須勢理毘売(すせりびめ)や、大国主命と推定される火遠理命(ほおりのみこと 山幸彦)の妻の豊玉姫も卑弥呼と推定されます。岡山市中区東山にある玉井宮東照宮には、豊玉比売命、彦火火出見命(山幸彦)、玉依比売命と徳川家康公が祀られています。中区祇園にある素盞鳴神社は、素盞鳴命、稲田姫命(いなだひめのみこと)、豊玉姫命を祀っているので、卑弥呼は、須佐之男命と奇稲田姫すなわち櫛名田比売(くしなだひめ)の娘と思われます。

 佐賀県伊万里市の淀姫神社は、與止日女命(豊姫命)を祀っていますが、五条桐彦(CHIRICO)氏のブログ『偲フ花』https://omouhana.com/によると、『淀姫神社(河上大明神)由緒記』には、「淀姫大明神は豊姫命と云い又の名を豊玉姫命とも云います。」とあるようで、五条氏は、豊玉姫命を邪馬台国の女王(親魏和王)と推定しています。

 「倭迹迹日百襲姫」から、「倭」と「日百襲姫」を除くと、「迹迹」が残ります。「迹」は仏語の「垂迹」(すいじゃく:仏や菩薩が衆生を仏道に導くため、かりに神々の姿となって現れること)に使われる漢字です。「とと」は、エジプトの神であるトト関連付ける説がありますが、2020年3月2日の西日本新聞に、福岡県の沖ノ島出土の国宝の切子玉が、化学組成の分析の結果、ササン朝(226~651年)のメソポタミア(現在のイラク)伝来であることがわかったとする記事が載っていました。このことから、卑弥呼の時代に、トト神が日本に伝わっていた可能性も考えられます。

 トトは、「知恵の神」、「書記の守護者」、「ピラミッドの設計者」など、いろいろな役割をもつことが知られていますが、太陽の沈んだ夜の時間は、トトが太陽にかわって地上を守護し、また、神々の争いの調停役も務めています。『魏志』倭人伝には、卑弥呼が共立されて、国中の争いが収まったと記されていることから、卑弥呼がトト神に例えられた理由は、太陽神である天照大神(大日孁貴)に代わって国をまとめ、治めたためではないかと推定されます。

 ヘリオポリスの太陽神ラーをめぐる神話によると、人はラー神の目から出てきたとされ、人類はラー神が老いてくると横柄になり、彼に対して陰謀をくわだてるようになったため、最後には、自分の代理にトト神を任命すると、姿を隠してしまったとされています3)。人類は闇の世界におかれましたが、トト神が月となってあらわれ光りがもどった、ということのようです。似た神話は中国南部の少数民族などにも多くあるようで、この神話は『古事記』や『日本書紀』にある天岩戸神話の基になったと考えられますが、太陽神である天照大神が隠れた理由は、実際は須佐之男命の行為とは関係がなかったと思われます。

 トトは、自身がもつあらゆる知識を42冊の書物に書き留め、「魔術の神」とも言われています。プトレマイオス2世(前285年-前246年)の頃、アレクサンドリアには、古代の書物を集めた図書館がつくられましたが、卑弥呼の時代には、まだ図書館は残っていたようです。卑弥呼が文字の読み書きができた可能性と関連する説として、纏向遺跡や女王国(邪馬台国)の一大率(いちだいそつ)が置かれた伊都国で見つかった砥石とされてきた石製品のうちの多くは、筆記用具のすずりとする説があります。

 古代エジプトでは、パピルスに記録していましたが、阿波忌部氏(あわいんべし)が麻や楮(こうぞ)を栽培し、紙の製造を行っていたという記録があり、大同年間(806~810年)の「延喜式(えんぎしき)」のために「紙麻七十斤、斐紙麻百斤を貢納した」という記録が残されています。縄文時代前期の鳥浜貝塚で、大麻で作られた編物が見つかっているので、布に記録したのかもしれません。日本は、多湿なので麻などで作った紙や布は保存しにくかったと思われます。

 ベニバナの原産はアフリカのエチオピアといわれ、地中海やエジプトを通り世界へ広まりました。ベニバナは、エジプトやインドなどで数千年前から栽培されていましたが、中国で栽培が始まったのは3世紀で、シルクロードを渡って日本へ伝わったのは飛鳥時代といわれています。エジプトは、プトレマイオス朝の時代から、紅海の港からインドと通商を行っていたため、卑弥呼は、海のルートでエジプトから書物やベニバナなどを入手していたのかもしれません。古代オリエントの商業・航海民族であるフェニキア人が関係していたのかもしれません。

 卑弥呼の没年は、『魏志』倭人伝の記載から西暦242年~248年と推定されますが、土器などの調査から、箸墓古墳の築造直後の年代は西暦240年~260年と推定されています1)。『日本書紀』は、箸墓古墳は、「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝えています。箸墓古墳が、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)の墓で、卑弥呼はエジプトのトト神に例えられたとすると、卑弥呼が、トトのピラミッド建造方法を知っていて、晩年に纏向の神殿に住んで、夜、自らの古墳の建造の指揮、監督をしていたのかもしれません。「ピラミッド」を法隆寺にも使われている「平三斗」(ひらみつと)という斗栱(建築物の柱上にあって軒を支える部分)と関係付ける説もあります。

 木村鷹太郎の邪馬台国=エジプト説があり、これによると『魏志倭人伝』は、地中海から東アジアに及ぶ広大な地域を支配していた時代の日本を記録したものとされます。箸墓古墳と古王国時代のエジプトの首都のメンフィスを結ぶラインは、鳥取県東伯郡の伯耆国一宮倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)の近くを通ります(図3、4)。 

図3 箸墓古墳とメンフィス(エジプト)を結ぶラインと倭文神社
図4 箸墓古墳とメンフィス(エジプト)を結ぶライン

 倭文神社の主神の建葉槌命(たけはづちのみこと)は、別名倭文神(しとりのかみ、しずのかみ)といい、天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや 倭文布)を織ったとされます。1996年2月に、下池山古墳(天理市)から出土した大型内行花文鏡の周囲に付着していた織物が「倭文織」(しづおり)と考えられ、239年に卑弥呼が中国の皇帝に貢物した「班布」(はんぷ)は「倭文織」の可能性が高いといわれています。「建葉槌命」の「葉槌」は、大麻の葉を槌でたたいてほぐしたことに由来すると思われます。倭文部の祖神で機織の神の倭文神(建葉槌命)は、斎の大人(いわいのうし)とされることから、豊玉姫命と推定されます。『日本書紀』の国譲り神話で、倭文神・建葉槌命が派遣されたというのは、創作と考えられます。

 箸墓古墳とオリンポス山を結ぶライン上に唐古という地名があり、唐古・鍵遺跡とほぼ同じ緯度に「倭文織」が見つかった4世紀前半頃の築造と推定される下池山古墳があります(図5)。倭文織の青色は「藍」、茶色は「くちなし」で染められた可能性が強いと考えられています。弥生時代中期の唐古・鍵の周辺遺跡(清水風遺跡)では、両手を広げた「鳥装(ちょうそう)」の女性と推測される絵画土器が出土していますが、豊穣を願うマツリの場で使用されたと考えられています。鳥装の女性のモデルは卑弥呼(豊玉姫命 倭迹迹日百襲姫命 建葉槌命)かもしれません。そうすると、晩年に卑弥呼は唐古に居たのかもしれません。

図5 箸墓古墳とオリンポス山を結ぶラインと唐古・鍵遺跡、下池山古墳

 2023年4月24日に、大阪府東大阪市にある「西岩田遺跡」から3世紀初めごろのものとみられる木製仮面が出土したという発表がありました。同時代の「纏向遺跡」からも同様な木製仮面が出土していますが、纏向遺跡と古代エジプトの遺跡があるメンフィスを結ぶライン上に「西岩田遺跡」のある西岩田があり、このラインは、建葉槌命(卑弥呼と推定)を祀る倭文神社の近くも通るので(図6)、これらには関連があると推定されます。

図6 纏向遺跡とメンフィスを結ぶラインと西岩田遺跡のある西岩田

 倭文神社のほぼ真南に、倭迹々日百襲姫命を祀る岡山神社(岡山市北区)と豊玉姫命を祀る玉比咩神社(たまひめじんじゃ)(玉野市)(写真2)があります(図7)。これは、箸墓古墳の被葬者は、倭迹々日百襲姫命(豊玉姫命)であることを示唆していると思われます。玉比咩神社には、触ることができる霊岩があります(写真3、4)。

図7 倭文神社と玉比咩神社を結ぶラインと岡山神社、箸墓古墳
写真2 玉比咩神社
写真3 玉比咩神社 霊岩
写真4 霊岩由緒

 玉比咩神社本殿の左手に鳥居があり、階段を登った高台に奥宮の臥龍稲荷神社(がりゅういなりじんじゃ)があります。元々は、玉比咩神社は臥龍稲荷神社の場所にあったようです。臥龍稲荷神社からは瀬戸内海が眺望できます(写真5)。臥龍稲荷神社と倭迹々日百襲姫命を祀る水主神社を結ぶラインのほぼ中間に屋島があります(図8)。屋島山上には、弥生時代中期の高地性集落の痕跡があります。このラインも豊玉姫命と倭迹々日百襲姫命を関係付けていると推定されます。

写真5 臥龍稲荷神社から屋島方面を望む
図8 臥龍稲荷神社と水主神社を結ぶラインと屋島

 箸墓古墳とアナトリア地方南部にある古代遺跡のチャタル・ヒュユクを結ぶラインを引くと、鳥取県鳥取市白兎にある白兎神社(はくとじんじゃ)の近くを通ります(図9、10)。白兎神社は、白兎神を主神とし、保食神と豊玉比売(豊玉姫命)を合祀しています。因幡国(鳥取県東部)は、大国主の国づくりにまつわる神話のひとつである「因幡の白兎神話」の舞台となっています。箸墓古墳の被葬者が卑弥呼で、白兎神が大国主命であることを示唆していると思われます。

図9 箸墓古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと白兎神社
図10 箸墓古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと白兎神社

 倭迹々日百襲姫命を祀る水主神社とメンフィスを結ぶラインの近くには、大槌島にある大槌神社の近くを通ります(図11)。水主神社の社伝によると、祭神である倭迹々日百襲姫は、8歳の時、孝霊天皇の黒田の宮を出、うつぼ舟にて、この地に漂着したとされています。うつぼ舟を箱舟と書いた史料が若干存在するようで、もしかすると、「うつぼ舟」は「ノアの箱舟」と関係があるかもしれません。大槌・小槌島の付近の海域は「槌ノ戸(つちのと)」と呼ばれ、古代には讃留霊王(さるれお 讃王)が怪魚を退治した海とされ、海底には龍宮城があるといわれているようです。大槌・小槌島の「槌」は「建葉槌命」に由来すると推定され、倭迹々日百襲姫とつながります。同じラインは、八国見山の山頂に鎮座したという高龗神を祀る多加意加美本宮神社(たかおかみじんじゃ/たかおがみじんじゃ)や石見国一宮物部神社と石見銀山の間を通ります(図11)。

図11 水主神社とメンフィスを結ぶラインと大槌神社(大槌島)、

 鹿島神宮の摂社の高房神社(たかふさじんじゃ)には、建葉槌神が祀られていますが、「高房」というのは、築後国一の宮高良大社に祀られている高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)と思われます。「玉垂」(たまだれ)は、古くは「たまたれ」ともいい、玉を緒で貫いて垂らし、飾りとしたものです。『筑後国神名帳』に「玉垂姫神」、『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」とあるように高良玉垂命はもともと女性神といわれています。高良玉垂命は豊玉姫命で、高良玉垂命は八幡大神(はちまんおおかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ)の中央に祀られているので、八幡総本宮宇佐神宮比売大神(宗像三女神)と同神と推定されます。『私の雑記帳(My record note)』に、比売大神=卑弥呼(日の巫女)=高良玉垂姫命(高良の巫女)とする説が載っていました。

 下條竜夫氏は、著書で柳田國男氏が毘売大神は巫女の開祖で玉依姫のことだと述べていることを引用し、卑弥呼の本名を玉姫と推定しています。そして、卑弥呼(玉姫)と台与(豊姫)のふたりの巫女を毘売大神として祀ったと推定しています4)。乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)には、豊玉姫命と玉依姫命が祀られています。「」は語の上につけてほめる意を表し、「豊玉依姫命」を豊玉姫命と略したと考えると、豊玉姫命が卑弥呼で玉依姫命が台与と推定されますが、豊玉姫命を玉依姫命と表している場合もあるのではないかと思われます。

 高良大社は、熊本県阿蘇市一の宮町の国造神社(こくぞうじんじゃ、くにのみやつこじんじゃ)とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあります(図12)。『肥後国誌』に、崇神天皇の代に速瓶玉命が肥後国造に任命され、景行天皇18年に、国造神社を修造し祭典を整えたとあるようです。鳥居の西60mの地点には、祭神の速瓶玉命の墓とされる上御倉古墳と、その妃の雨宮媛命の墓とされる下御倉古墳があり、これらの円墳は6世紀後半の築造と推定されています。阿蘇国造の阿蘇氏(あそうじ)は、多氏と同祖で、豊玉姫命と血縁関係があったと推定されます。

図12 国造神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと高良大社

 ギョベクリ・テペと福岡県久留米市の玉垂宮を結ぶラインは、吉野ケ里遺跡付近と高良御廟院大善寺玉垂宮(久留米市大善寺町)の近くを通ります(図13)。また、三潴郡大木町笹渕にある玉垂宮と対馬市上対馬町の瀛津島媛神(おきつしまひめのかみ)を祀る宗像神社を結ぶラインも吉野ケ里遺跡付近と平原遺跡(ひらばるいせき)を通ります(図14)。『古事記』では宗像三女神の多紀理毘売命の別名を奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)としています。

図13 ギョベクリ・テペと玉垂宮(久留米市)を結ぶラインと高良御廟院大善寺玉垂宮、玉垂宮(八女市)、玉垂宮(三潴郡大木町)と宗像神社(対馬市)を結ぶラインと吉野ケ里歴史公園
図14 ギョベクリ・テペと玉垂宮(久留米市)を結ぶラインと吉野ケ里歴史公園、玉垂宮(八女市)、玉垂宮(三潴郡大木町)と宗像神社(対馬市)を結ぶラインと平原遺跡

 筑前国一之宮筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、応神天皇、神功皇后、玉依姫命を祀り、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。大分県豊後大野市にある白石神社は速玉之男神を祀り、メンフィスと白玉神社を結ぶラインの近くには筥崎宮や、玉依姫命を祀る宝満宮 竈門神社があります(図15)。筥崎宮や竈門神社の玉依姫命は、豊玉姫命と推定されます。

図15 メンフィス(エジプト)と白石神社(大分県豊後大野市)を結ぶラインと筥崎宮、宝満宮 竈門神社

 熊本県上益城郡山都町にある幣立神宮とメンフィスを結ぶラインは、佐賀県杵島郡白石町にある豊玉彦、豊玉姫を祀る海童神社の近くを通ります(図16)。社地のある辺りはかつて有明海に突き出した岬(崎)の突端で竜王崎と呼ばれていました。

図16 幣立神宮とメンフィスを結ぶラインと海童神社

 豊玉姫命の本当の姿は和邇(サメ)ではなく龍と言う表記もあるようで、水の神でもある豊玉姫命と、雨を司ると考えられた龍神が結びついたのではないかと考えられています(神仏ネット)。応竜(おうりゅう)は、中国の古書『山海経』(せんがいきょう)の中にあらわれる龍の一種とされ、中国神話では、帝王である黄帝に直属していた龍です。『瑞応記』では、「黄竜は神の精、応竜は四竜の長」と記されています。大分県国東市にある白石神社は、通称龍神様といわれます。佐賀市富士町にある大己貴命、少名彦命、素盞嗚命を祀っている白石大明神は、天孫降臨の地として知られる宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸にある八大龍王水神とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあります(図17)。大分県大分市横尾の水分神社(みくまりじんじゃ)の祭神は綿津見の神、八大龍王、龍神の神石です。オリンポス山と津久見市の八大龍王を結ぶラインの近くに白石神社(福岡県京都郡苅田町)と八大龍王龍神の池(水分神社境内)(図17)があります。また、八大龍王水神(高千穂町)と八大龍王龍神の池(大分市)を結ぶラインと、八大龍王神社(佐伯市)と白石神社(佐賀市)を結ぶラインの交点の近くに白石神社(豊後大野市)があります(図17)。

図17 八大龍王水神(高千穂町)とギョベクリ・テペを結ぶラインと白石大明神(佐賀市)、オリンポス山と八大龍王(津久見市)を結ぶラインと八大龍王龍神の池(大分市)、白石神社(福岡県)、八大龍王水神(高千穂町)と八大龍王龍神の池(大分市)を結ぶライン、八大龍王神社(佐伯市)と白石神社(佐賀市)を結ぶラインと白石神社(豊後大野市)

文献
1)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
2)武光誠 2019 「『日本書紀』に描かれた国譲りの真実」 宝島社
3)松本 弥 2020 「図説古代エジプト誌 増補新版 古代エジプトの神々」 弥呂久
4)下條竜夫 2022 「邪馬台国の謎」 秀和システム