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「評価」という幻想

あくまで個人の見解なので、傷ついたり腹が立ちそうな人は読まない方がいいと思います。

先日知り合い(Aさん)と「評価」について話す機会がありました。
何の評価かというと、「会社の評価」です。

Aさんの会社では、営業成績ような実務に対する定量評価もあるようですが、社内的にはあまり重要視されておらず、むしろ、会社に対する貢献も含めた「人格」のような、定性評価が重要視されているとのことでした。

Aさんが浮かない表情をしているので、事情を聞いてみると、

「”こういう人格じゃないとダメ!”って言われている訳ではないし、そういった同調圧力もないように思うけど、人格に対して評価付けをしている時点で、(評価する人の心の)どこかで”ダメ”って思ってるんじゃないかって思ってしまう。だから、評価する期間になると気持ちが落ちる。」

最近は、成果だけの評価だけでなく、メンタルや姿勢や人格を評価基準にする会社や組織も多くなっていますよね。

人事系のソフトやコンサルティングの技法も日々進化し、ディープラーニングを用いたAIによる評価なども注目されています。

しかし、ここで考えたいのは、「評価の本質」です。
本来、評価することは”正しい”ことなのか、評価は必要なのか、そもそも評価は何のために存在しているのか。
意外と見落としがちなポイントなのではないかと思います。

なぜ僕たちは「評価」を簡単に受け入れられるようになったんでしょうか?
多分それは「学校」の存在が大きいと思います。
学校(少なくとも僕の通っていた学校)は、あたかも「評価」が普遍的に世の中に存在しているものであるかのように教えてくれます。
評価がなければ人間として生きていけないかのようにも、教えてくれます。

本当にそうなんでしょうか?
僕たち人間は「評価」がなければ生きていけないのでしょうか?

バカの自覚

つまるところ、人間は同じ人間を判断できるほど「立派」ではないと思います。
しかし、僕たちの先祖(とされている)であるホモ・サピエンスは、ほんの少しだけ高度な知能を持っていたが故に、そこそこ生き残ってしまいました。結構な人数が生き残ってしまいました。

だからこそ、「評価」を必要としたのではないかと思います。
いくつかの研究によれば、人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限は、「100人〜250人」の間ではないかとされています。(ダンバー数)
”認知する”だけであれば、500人が限界とも言われています。

今、ホモ・サピエンス(人類)は70億人を超え、僕たちが生きている間には100億人に達するとも言われています。
日本の人口で1億人。男性5000万人・女性5000万人。生産人口が全世代の45%強と言われているので、男性だと2300万人。同級生は50万人〜80万人ほどいる計算になります。

街中ですれ違う、おそらく同世代であろう人のことを判断できますか?
難しいですね。
だからこそ、僕たちは「評価」をツールとして判断し始めたんだと思います。
「〇〇評価が高いから、あの人は信用に値する」
「△△評価が低いから、あの人は信用に値しない」
僕たちは、様々な評価で相手を判断しています。

学校のテストや成績なんかは議論にも値しないので、
例えば、「スーツは綺麗だけど、革靴が汚れているからあの人はビジネスマンとしてはどうかな・・・」
「顔はかっこいいんだけど、年収が250万円らしいからちょっとなあ・・・」
「顔は可愛いんだけど、料理できない女の子とは付き合えないよ・・・」

など、(決して僕が思っていることではありませんよ!)
これ以上例を挙げるとナントカ団体から怒られそうですが。

得てして人は、曖昧で、相対的な評価によって他人を判断しています。

世の中の事象は、かっちり決まっているように見えますが、以外とざっくりしているのではないでしょうか。
人々が「普遍的」だと思っていることの多くは、時代やメディア操作や感情によって作り出された「バカな評価」なのかもしれません。

バカ≠悪い

バカバカと言っていてもしょうがないので、もう少し建設的に考えていきたいと思います。

まあ、人間なんてたまたま地球上の他の生物に比べてほんの少し賢いだけで、結構バカなんじゃないかと思うんです。
でも、バカって別に「悪い」ことと同義ではないとも思います。

言いたいのは、
「自分たちは知能の優れた生き物だ」
「自分は〇〇大学出身だから世の中では優秀な方だ」
「夫の年収は1000万円を超えているからエリートだ」
などと、所詮バカ同士の比べ合いの中で、ただただ盲目的に他人を評価し、自分を評価し、空虚な安心感や不安感に浸っていても、現実は何一つ変わりません。

自覚すればいいと思うんです。
所詮はバカ同士の張り合いをしていたり、バカだから自分や大切な人を判断することもできない、だから、テイのいい評価を用いて少しでも安心したい。安心してほしい。
そう思っているんではないでしょうか。

評価することが「目的」になったらそれこそ、ホンマもんの大バカ者です。

AIじゃ勝てない(かもしれない)唯一残された才能

僕たちホモ・サピエンスは数が増えすぎました。
数が増えすぎたが故に、統制が取れなくなり、評価を武器にしました。
人も増えれば、様々な思惑が作用して、いろんな評価が登場してきました。

力の強さ、美しさ、顔の大きさ、足の長さ(日本でもつい数十年前まで”足が短いほうがいい”とされていた時代もあったそうです。生まれてくる時代間違えたかな)、収穫量、資産量、子供の多さ、人口の多さ

このように、「定量的」な評価であればまだ判別できるのですが、

性格の良さ、優しさ、気配り、ワイルドさ

などと言われてしまうと、もう何がなんだかわかりません。

でも、むしろ、こうやって「独自の評価」が進化してもいいんじゃないかと思います。

人間全てを定量的な数値で判断し始めると、途端に無機質な社会になりそうです。
定量を判別するなら、「AI」で十分です。
そこでは勝負できないので、僕たちは僕たちなりの生存戦略を考えましょう。

僕たちホモ・サピエンスに備わっている唯一の武器は、「信じる力」です。
人間は進化の過程の中で「噂話」「神話」を信じる力が強かったからこそ生き残ることができたと言われています。
例えば、神話・宗教、村同士の噂話、金融・株式市場・貨幣、善悪(犯罪、殺人など)、その全ては人間の「信じる力」なくしては発展し得なかったことです。

SNSでの誹謗中傷や、時代から取り残され図体だけが大きくなったメディア、僕らは自分たちで都合よく作り出した評価によって自らを飲み込もうとしています。

評価の時代は終わった

もう人間が人間を評価できていた時代は終わりました。
インターネットもその流れを加速させた要因とも言えるでしょう。

物差しが多い時代に生きるのは息苦しいです。身動きが取れないです。

でも、僕たちは「バカ」なので、評価にも頼れないと生きていけないかもしれません。

次の時代、それは「コミュニティ」です。
一つ一つのコミュニティが独自の価値観や評価基準を持ち、200人ほどの少人数で無数に混在している姿がいいのではないかと思います。
1人の人間が複数のコミュニティに属していてもいいし、一つだけでもいいです。

今までも時代は、ただの社会人クラブや同好会だったかもしれませんが、テクノロジーが発展した今、僕たちは「国」を作れます。
独自の経済圏を作り、場所を気にせず繋がれます。
消費も生産もできます。
治安を歪める人は簡単に退場できます。
考えに合わなくなったら簡単に退場できます。
そして、すぐに別のコミュニティに入場できます。

最後に残るのは、「安心感」です。

安心して人間が人間生活を送るために、もう一度コミュニティを問い直してもいい時代になっているような気がします。



<終わり>

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