自己紹介3

こんばんは、和歌山県で自助サークルを立ち上げ、まだまだ認知度ド底辺な「心燈 - cocotto -」代表の深山静です。

さて自己紹介も三回目。

今回は前回の続き。

「うつ病の根の深さ」を思い知らされてから今の状態のことを書きたいと思います。







わたしは三か月ほどの病休で一度仕事を休みました。

周囲からの支えもあり、まず体調が安定したことで慣らし出勤もうまく行き、復職に踏み切りました。

9月からは新たに始まる子ども子育て新法などの準備に追われ、また上司からわたしの興味がありそうな仕事を振ってくださったおかげで、仕事ができることの喜びを感じていました。

と、いうのは建前で、本当は復帰初日から違和感がありました。

慣らし出勤は人の出入りが少ない場所でしていたので、大勢の人がいて、市民がひっきりなしに出入りする総合フロアのざわつきは意外とわたしの胸の中に波紋を作っていました。また休んでいた間に同僚たちが代わりに(その場しのぎ)にこなしてくれていたことの整理から始めることになったので、「自分が休んでいたこと」を突き付けられる状態でした。


これは仕事。

みんなが助けてくれた。

この続きはわたしはする。

それは当たり前。


そう言い聞かせ、できるところから整理を始め、また新しいことに挑戦しました。


でも本当に今から思えばこれは危険なことでもありました。

わたしは性格上「元気でいることを周囲にアピールする」「いい子で仕事できることをアピールする」という外面の良さがあります。これはわたしが幼少期に親戚に順繰りにお世話になっていたことが大きく影響していて、「いい子」でいれば、「笑顔」でいれば、何もかも円滑に行くと思い込んでいる節がありました。


その後、新たに人員が増えることになり、気合を入れ過ぎ、その結果、少しずつ歪を生じ始める体力的な問題、違和感が修正されないまま現実と理想の溝が広がっていくことによる精神的な問題が膨らみ始めて行きました。これらが遂に限界を迎えるのはそう先の話ではありませんでした。

新しく係に加わった先輩の歓迎会も兼ねて、同じ係の若手でご飯を食べに行くことになったのですが、わたしはその日「お腹が痛くて」と言ってドタキャンしました。

その割にわたしは残って仕事をしていて、別の係の同期がわたしの様子を見に来てくれました。

「ほんまはな、嘘ついて行かんかってん。今は無理に笑ったりできひん。しんどい」

わたしの中でその言葉を言ってしまったことは、ギリギリせき止めていた部分が崩壊するきっかけでもありました。

復職してすぐに、自分が申し訳なさや負い目を感じている仕事と向き合わなければならないこと、新しいことに挑戦すること、これらは同時に行ってはいけないと思います。特に「休んでいた間に代わりにしてもらった仕事」の整理や後始末は、しんどかった時期のことを再び眼前に突き付けられ、わたしが休んだから他の人に迷惑をかけたんだと思わせるのにかなりの効力を持っています。


この頃わたしはよく記憶が飛んでいました。

記憶が飛ぶ。少し表現が過ぎるかもしれません。

優先順位が付けられない状態にありました。

でもそれを周りには言えないままでした。


市民や県庁の人たちからの問い合わせに対しても、どれから手を付けていいか分からずその場しのぎの回答で誤魔化すしかありません。やらなければと思う気持ち、これは当たり前のことなのですが、そのやらなければならないという気持ちをどう行動に起こせばいいのか分からず、そうこうしているうちにまた課題が増え、最初にやりかけていたことが飛んでしまうのです。勿論。それによってトラブルになり、先方から呆れられたり叱責されることもありました。

でも自分でもどうしようもなく、上司に相談するべきだったのでしょうが、これ以上相談して迷惑をかけたくない、できれば自分の中で処理してしまいたい、それよりも相談することはまた迷惑をかけることだとか、とにかく誰に対して迷惑を掛けてはいけないのかの判断ができなかったのです。

これは市役所の職員として非常に問題のある状態でした。

クリアできないまま積み上がっていく課題と、心身のズレ、それらが自分の中でもう抑えきれなくなってしまって、わたしは二度目の病休(途中から休職)に変わりました。


二度目の休職については、親との軋轢もありました。

なぜ二度も休むことになるのか。本当に病院は合っているのか。なぜ薬を飲んでいて治らないのか。本当にうつ病なのか。(嘘とかそういうのではなく、別の病気を疑っていたようでしたが、わたしは仮病だと言われているように受け取りました)

それらの言葉はわたしの心に深く突き刺さります。


明日のことも分からない、今の自分の状態ですらも分からないわたしにとって、これらのことは不安を煽り、また疑心暗鬼になっていくばかりです。

お医者さんのことは信じたいけれど、一体、この病気は治るまでにどれだけの時間が必要なのか。擦過傷、打撲なら全治一週間、骨折なら全治三か月、何かしらの手術をして予後三か月。そんなはっきりと決まった期間をお医者さんは提示してくれません。

なぜなら心の病は、レントゲンを撮ったり、目に見えて怪我(病気)の部位が分かるものではないからです。回復に至るのも本人の元々の性格と周囲の環境、薬や医師との相性など、複雑に絡み合って、それこそ十人いれば十通りの治し方と治るまでの期間があるのです。


まだこの時点でもわたしは無知だったがゆえに、二度目のうつ病による休職を言い渡されたことに対し、恥と情けなさ、絶望を感じていました。

この頃本当に「これ以上迷惑をかけるなら死んだ方がみな円満に解決するんじゃないか。そうだ、こんな価値のない、迷惑ばかりかける人間は死ななければならない」希死念慮が常に襲ってきます。

しかし同時に仕事をしなければわたしの存在価値はないという、正反対の考えもわたしの中にありました。普段の自分に自信がないから、せめて仕事をして役に立たなければそれこそ生きている価値がないからです。

三か月後にはこの病休も終わり、次は休職になってしまうし、とにかくこの三か月で何とか元に戻らなければ!!!!

わたしはカウンセリングルームを探し出し、箱庭療法を受けることにしました。心理カウンセラーによる三十分間のカウンセリングの後に、三十分間箱庭作りをします。出来上がった箱庭を通して、今自分が抱えている不安や気にかかっていることを認知するという流れです。

カウンセラーや医師と話をしている間、わたしの心は前向きになります。二人とも前向きな声をかけてくれるので、ついうしろ向きになっているわたしも、気持ちが安らぎ、頑張ってみようという気になります。

そこで再び気持ちも安定したことで慣らし出勤を始めました。

ですが、もう子ども係にわたしの居場所はありませんでした。

慣らし出勤初日、今回は別室での勤務はできず(そういう仕事がなかったので)、直接自分の席に行ったとき、机の上は書類だらけで、物置と化していました。恐らく休んでいた間に片付けてくれたであろうわたしの仕事がひたすら積み上がっていますし、他の人の書類も載っています。

わたしはこの書類の山を前に、書き物をするスペースもないこの机を前に、完全に心が折れてしまっていました。わたしが二度目に休んでいた数か月の間にわたしはもういなくていい存在になってしまった。それよりも慣らし出勤が歓迎されていない。そんな状況でどうやって慣らし出勤したらいいんだろう。

そんな気分の中で、みんなに朝の挨拶をしても目をうまく合わせられません。早く帰りたくて仕方ありません。特に同じ係の人たちに対しては、もしかしたら被害妄想かもしれませんが、「来たんや」という一線引いた雰囲気を感じました。彼ら、彼女らの思いがこの机の現状なのだと思いました。

同じ係には仲良くしている友人もいて、彼女はわたしに安心を与えてくれましたが、どうしても最初の机の衝撃が強く、二度目の慣らし出勤は最初から全くうまくいきませんでした。

結局グダグダのまま、出ては休み、休んでいる間は泣き続け、朝が来ればベッドの中で過呼吸を起こし、それでも行かなければと自分を追い込み、最悪の状態を作り上げるばかりです。


折角病院やカウンセリングルームで「こういうことで悩んでいるのなら、こういうことを職場の人に提案してみましょう」と言われ、勇気を貰って話をしに行っても、実際現場で働く人たちの思いはあまりに現実的過ぎて思いを伝えることはかないませんでした。わたしがあれをしたいこれをしたいと言っても、「まずは安定して出てきて。そうでないと信用して仕事を渡せません」と言われ、それはあまりに正論なのでもうその言葉を言われた時点で続きが言えなくなるのです。


三月末、休んでいるわたしに課長から「同じ福祉課だけと民生係に課内異動しましょう」と提案がありました。

今の子ども係でいることはわたしにとってよくないとの判断でした。

ただ完全に環境を変えてしまうのも適応するのに困難でしょうから、知っている人たちのいる、でも別の係でリスタートしたらどうでしょうということでした。その裏に他の人たちからの「扱いにくい」「いらない」という声があったのだろうなと今でも思い込んでいます。(※思っている、ではなく思い込んでいます)


四月からは隣の島に移り、しばらくは平穏な日々が続きました。

しかし秋に向けて大好きだった先輩が退職することになったり、同期が病休になったり、理不尽な仕打ちを受けたり(ストレスのはけ口)、それでなくとも打たれ弱い状況の中で休む暇なく定期的にストレスがかかることがあり、わたしは自分の感情をコントロールできなくなり、職場で過呼吸を起こし、ついに三度目の病休に入ることになります。

現在、わたしは懲りずに三度目の復職をしています。

場所は福祉課ではなく上のフロアの総務課です。

今回の復職に至るまで、また復職してからもかなりの綱渡りできて、今もまだそれは続いています。

周囲はわたしが休みがちでも出てくることに何かしら思うところはあるでしょうが、それを口に出さず、普段通りで出迎えてくれます。そのことがどれだけありがたいことか。おかげで実地訓練のように、躓きながらも前に進むことができています。

他者からの負の感情が自分に向けられているという被害妄想は、今の部署(総務課)では感じることはなく、どちらかといえば躓くきっかけは自己嫌悪や自己否定、責任を果たせないことへの焦燥感などです。これらについては今後も綱渡りながら少しずつクリアしていけばいいかなと思っています。


公務員のお給料は税金から成っています。本来であればこんなに休職と復職を繰り返していることにもっと危機感を持つべき、責任感を持つべきと思います。

しかし今のわたしはこんな状態でありながらも「生き続けたい」「仕事を辞めたら、ダメになってしまう」という自覚があります。


本当に迷惑な話ですが、もがきながらも生き続け、いつか安定した状態で仕事をできるようになったら、それこそ無理しない程度ですが、精一杯の恩返しを住民にしたいのです。住民に精一杯の恩返しをするのは当たり前の話です。それが公務員の仕事なのですから。

ですが、心の病になったことで、同じように心の病に苦しんでいる住民が相談窓口に来たときに、心の病になったことのない職員に比べて共感はできると思います。

スポーツしていた人が、教育委員会の生涯学習で誰よりもパワー全開で仕事ができるのと同じように。

ご実家が農家で小さい頃から農作業の手伝いをしていた人が、農政関係で農家さんたちと協力してよりよい事業を進められるように。

心の病になったわたしだからこそできる仕事が今後必ずあると信じています。

だからその時まで周囲のご厚意に甘えさえて頂きながら、どうしたら生き辛さを少しでも緩和しながら復帰に向けて生活を送れるのか、自分なりに向き合っていきたいと考えています。





さて次回からは自己紹介も大詰め、何がわたしを自助サークルを立ち上げさせたのかについて書きたいと思います。

それが終われば、少しずつまた過去のことを振り返っていきたいと思います。

今回はいつも以上に読みづらい文章になってすみません。

次回もよろしくお願いします。

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