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#62推敲の習慣。

Noteを始めて、そろそろ四ヶ月半になります。あっという間でした。気持ち的には「もう何年も続けてきているのでは?」と錯覚するほど、noteを楽しみながら日々を過ごすことが板についてきた感じです。

続けているとはいっても、ずっと穏やかに坂道を登ってきたという感じではなく、気持ちの上では紆余曲折がありました。だれにも読まれないことに過剰な辛さを感じていた頃もありましたし、書いている内容に「ここまで言ってしまってもよいものか?」と自分の中で葛藤しながら、アップする直前まで悩んだこともありました。きっとこれからもそんな経験を続けていくと思います。

いろんな方がnoteを始めたきっかけについて語ったり、続けてきたことにまつわる気持ちを吐露されたり、書き続けていく上での自分の願いや目標を記されているのをみて、わたしも勇気付けられています。できれば山登りのように、暫くは継続していきたいと今は考えています。

文章を書いてnoteにアップすることで一番変化したことは何かなと振り返ってみると、推敲することが苦ではなくなったことが挙げられます。以前のわたしは、書いたものを読み直す作業に、正直なところかなり苦痛を感じていました。短い文章でも、多少長めの文章でも、一旦最後まで書き終えた時点で「ひとまず一仕事済んだ」という気がするものです。でも、それは気のせいなのです。ここは単なる折り返し地点。そこから少し時間を開けて、もう一度始めから読み直しつつ、修正を加えていく作業が始まります。これはもうエンドレスです。やろうと思えばどこまでも続けられそうな気がします。だからこそ「一体いつになったら終わるのだろう」と嘆きたい気持ちになることが多かったのです。推敲する作業の煩わしさが苦痛だったというよりも、「ここからは別の作業に取り組むのだ」という気持ちの切り替えが、下手だったのだろうと思います。書くことと推敲することとは、似て非なる作業なのだと今では考えています。

noteを始めたことで「推敲した方が、文章は読みやすくなる」ことを実感できるようになり、「それなら、やるしかないだろう」と覚悟が決まったような気がします。読んでくださる方の時間をいただくわけだから、そこにリスペクトが必要だとも思ったのです(リスペクトする対象は、読んでくださる相手と、わたしたち自身の中を同じように流れていく時間そのものに対してです)。覚悟が決まったことで、それまで十分に意識できていなかった推敲することの意味を、改めて意識できるようになったのかもしれません。

何度もエッセイの手直しをするようになってから、わたしは以前書いたまま、放っておいた短めのお話(童話)も推敲できるようになりました。

「ここは上手に書けている」
「ここの展開は乱暴だったかな」
「文体がそっけなさすぎる」

時間をあけてから眺めることで、自分の書いた文章も、少しは客観的に観察できるようになりました。

面白いもので、ひとつの文章の中で主語が先にくるか、後にくるかだけでも、読み心地が変わります。文章全体の流れが違和感なくイメージできるように、一言、一言が「この言葉でいいの?この場所でいいの?」と確認していく作業をする際、言葉の表面を柔らかい布で拭いて磨いてやっているような、やさしい気持ちで読み直しをすると、イライラしないで済むようになりました。

Noteを始めてすぐの頃(2023年11月頃)、何作品もお話を掲載したのですが、それは一年以上前に書いていたものを手直ししたものです。手直しするコツが分かるようになってから、新しいお話を書いた後も、時間をおいてから修正することが自然な流れとして定着していきました。

「文章を書き残す」というのは、直線的な作業ではありません。牛が一度食べたものを消化するために、口の中に戻して反芻するのと同じような手間暇をかけることで、ようやく「多少は飲み込めるような言葉の流れ」ができていくような気がします。そして書き上げた文章が、人の心にまで届くようになるのは、きっと読んでくださった人の脳内で消化してもらうという体験の積み重ねを必要としているのだろうと感じています。

文体やお話の構成については、まだまだこの先、沢山の練習を積んでいきたいなと思っていますが、自分の粘りどころが何処か(=推敲をおろそかにしない)を、自分で把握できるようになったのは今は何よりの収穫です。

児童文学作家の角野栄子さんが、お話を書くためのコツとして10つほど挙げておられます。その中に「書き直すのが楽しくならないと、いい作品は生まれません」という一文を見つけて、ああ、やっぱりそうなんだなあと思いました。

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