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ネガティブの否定が困難を生む

近年においてはポジティブ思考であることを良しとする傾向がある。
そのことでネガティブを否定してはいまいか?

ポジティブの肯定は好ましい。
ネガティブの否定は困難を生む。

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先日、FBに友人がこの画像をアップしているのを見かけた。
鬱により自殺に至った有名人の楽しく明るく振る舞う姿はその心の闇を想像すらさせない。

鬱に陥り、落ち込み、落ちぶれ、輝きを失う己自身が不甲斐なく、認められず、嫌悪を感じ、許しがたい。

自己を否定した結果の自殺。

鬱状態から自殺に至るか否かは、落ちぶれる己自身を受け入れられるかどうかによるのかもれしない。

親しい人が自殺をすると周囲の者は苦しめられる。
罪悪感という左脳の理解ではとうてい取り去ることのできない心の痛みに苛まれる。

あなたのせいではない。
あなたにはどうすることもできなかった。
本人の問題。

全ては真理でありながら心には届かない。
その理不尽な真理を理解する論理がここにある。

自殺が己のネガティブを受け入れられなかった結果の行為であるのなら、本人以外にそれを救うことなどできはしない。

己を認め、受け入れることは当人以外にはできはしないのだから。
あなたがその人を認め受け入れようと、その人自身が自らを受け入れない限り、苦しみを取り除くことなどできはしない。


自身のネガティブを否定することが己自身を苦しめる。


この画像を目にし、私自身がネガティブ否定に陥っていたことに気付かされた。
新型コロナウィルスの影響で世界が様変わりしたここ数ヶ月、先の見通しが立たず気持ちに張りがなく、パッとしない自分自身に嫌悪し、自己否定をしていた。

風邪気味の時でさえ、「相変わらずお元気そうで」
そのように声をかけられるほど日頃元気である自分が自分らしいと感じるし、「いついかなる時も幸せ」であることを追求し、その幸せに至った私が、こんな張り合いのない、つまらない自分であることに嫌悪し、認めたくない気持ちがあった。

そのネガティブ否定がかえって自分を苦しめていた。


2003年、かつて人生で最も辛かった時、それまで人前で泣くことができなかった私が所構わずどこででも泣いていた。
そして気づいた。
本当の強さは、弱さを見せないことではなく、
弱さを見せる開き直りなのだと…。

弱さを見せる勇気をもって強くなる。


パッとしなくていいんだよ。
つまらなくていいんだよ。
落ち込んでいいんだよ。
落ちぶれたっていいんだよ。

今、そんなつまらない、格好悪い自分になることを自分に許可し、受け入れた途端に楽になり安堵した。
しばらくの間食欲がなく、料理をする気を失っていた私に数ヶ月ぶりに料理をする気力が湧いてきた。

私から気力を奪ったのは、パンデミックではなく、それに翻弄する自分を受け入れられない己自身であった。

ブログを数年続け、偉そうなことを投稿し、嫌いな自分を認めることの大切さを綴りながら、私自身は立派な人であろうとしていたのかもしれない。

たかが人間のくせに…。

自分が何者かであろうとするなどおこがましい。
インスピレーションは自分の内から湧くのではなく、外の何ものかからやってくるものであり、自分はその媒体に過ぎないのだ。

「傲るな」
私にとっては今回の世界の混乱が日々気づきを与えてくれる何者かによる叱咤であるように感じた。
ブログをnoteへ移行するにあたり、最初に投稿した内容が「傲るな」であったことがふと腑に落ちた。

終日雨でパッとしないかすみのかかった空は私の心を映し出しているようだったけれど、それでも私は空が好きだな、と思うのだった。

日々の気づきを大切にし、それをできるだけ多くの方とシェアできたら嬉しいと思っています。サポートしていただけるととても励みになります。