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今の自分でいいと思っている(自己限定の肯定と言行不一致)

みんなこう言う。

「生きていれば、色々なことがあるけれど、でも、私は今のこの自分でいいと思っている。」

これをわざわざ、こちらが聞いてもいないのに強く主張する人間が最近増えたなという印象がある。

私は今の自分でいいと思っている。今ある自分を私は肯定して受け入れている。だから、私はノンストレスで幸せなのとそういいながら、その人の顔を見ていると、微妙にどこかが歪んで見える。

私はマインドアナリストという仕事をしているので、そうした人の顔つきや、態度などそういった中にある微妙な変化をすぐに察知することが出来る。

彼らは、私からすると一生懸命自分に力をかけて今ある自分を肯定しようとしているに過ぎない、そんな風に見える。

肯定出来てなどいない。でも、肯定しなければ自分が崩れてしまう。だから、必死になって自己正当化を図って、自分を肯定しようと必死になる。

そして私の所に来て言う。

私は今なんの不足もありませんと。

ならば、別に何の問題もありませんね、お帰りください。と本来であればそういいたいところだけれど、彼らはそう言われて追い払われてしまう事をどこかで強く恐れている。

その顔を見れば、違うんだよ、私の思いは違うんだよ!わかってよ!という目をして私に訴えている。気づいて!私のこのどうにもならないこの気持ちに気づいて!そう彼らは心の中で叫んでいる。

だから、自分は今の自分でいいと思っているんです!とこっちが何も聞かないのに、そう主張してくる人間を見ると、本当は違って、そうではない自分の心を、感情をどうか見抜いてくれ!とそう言われている気がする。

なので、私はそうしたクライアントに、今の自分に何も満足も納得も本当はしていませんよねとそういう。

これでいいなんて思っていない。ただ、そう言わなければ、そう言って自分を肯定していなければいられない、そんな自分がそこにはいる。だから、彼らはその本当の自分を押し殺すように、自分はこれでいいと思っていると自分に圧をかけて、自分の心の奥深くにある感情を押し殺す。

私はこれでいいと思っている。というのは、ある種一種のあきらめなのだと私は思っている。もうこれ以上あがいたところでどうにもならない。ならば、今ある状況すべてを受け入れてしまえ。その方が楽になるという事です。

こうしたタイプの人に、私はいつもこういいます。あなたは自分の可動域というものが極端に狭いですねと。

本当に小さい部分に自分を押しこんで、それを自分だとして生きている。そしてその自分は自分が押し込んだその領内でしか生きることは出来ないとそう思っている。

自分とはもっと広く自由に動けるのに、どこまでも自分の可動域なんて自分次第で広げることが出来るのに、それをしようとしない。自分の可能性を極端に縮めて、これが自分だから、私はこれでいいのという。

ある種、彼らは大ウソつきだ。

これでいいとなんて思っていない。現状はこれでいいと思うしかないというのが本音だと思う。

自分はこういう形でしか生きられない。だから、この形の中で生きるしかほかない。この自分が持つ形の中で出来る最大限を生きることが出来ればそれでいい。

彼らはわたしからすると、視野が怖ろしく狭い。自分をこういうものだと限定し、その中から出ようとしない。もっと言えば、そこから自分が出ることが出来るとも思っていない。

自分の一歩外に出てみれば、そこには自分では創造もしたことのない広い世界、可能性が広がっている。でも、それを自発的に取りに行こうとはしない。自分の可能性を大きく広げようと勇気をもって行動しようともしない。

皆、キルケゴールのいう死の病に侵されている、そんな状態だ。

自分をこうだと自己限定してしまえば、その自己限定によって、私たちは徐々腐っていく。自分をこうだとしたその世界の中で少しづつ腐っていく。

足元から徐々に自分がさび付いて自由に動けなくなる。それを誰もが心のどこではわかっていながら、それにどうにかして対処しようとも、それをどうにかしようと新たな活路を見出そうとする人間もいないというか少ない。

皆、死に至る病だ。

私はこれでいいと思っている。今の自分でいいと思っているというのは、私からすれば、それは単なる言い訳に過ぎない。そう言いながら、その顔に輝きが一切ない。輝きどころか、そう言いながら、その顔は小さくしぼんでいる。

この世には言行一致という言葉があるが、今はこの言行一致している人間が極端に少ない。むしろ、私の見る人の多くは、言行不一致な人間が多い。私はそうした言行不一致な人間に、あなたの言っていることはすべてにおいて矛盾していますよとそう突きつける。

この現実を目の前に突きつけることにより、彼らの中で何かが壊れる。そしてその時にはじめて、自らが死に至る.病であったことに気づく。

こうという自分に同一化していれば、そこから簡単に脱同一化を図ることは意外に容易かもしれないが、これが完全に同化し、それを自分だとして生きている人間にとっては、まず、自分がそのものに同化して飲み込まれてしまっているという事を教えなければいけない。

これは非常に時間のかかる事だが、一旦自分がつけたペルソナを外すとはそう簡単なことではない。皆その時々で脱着可能なペルソナをつけているとそう思っているかもしれないが、そのペルソナも、いつもつけていれば、いつかそのペルソナは自分の一部となり、そして皮膚と同化し、気づいた時にはというか、自分でも知らない間に、それがそもそもの自分だと私たちは認識してしまう生き物なのだと思う。

こうしたことを最もわかりやすく、そして面白く描いている映画がある。
映画「MASK」だ。少し古い映画にはなるけれど、見てみると面白いかもしれない。

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