ヨルシカの嘘月について考えたこと

ヨルシカさんの嘘月の歌詞について考察したことです。
アルバム『盗作』『創作』の内容にも触れています。

「昔の僕は涙が宝石で出来てた」は、古い涙が(美化されて)固体になったと取れ、水に固で涸なので、今は涙がれたのかなと思いました。
「声はもうとっくに忘れた 想い出も愛も死んだ」と続くので、涙も無くなっていそうです。


「雨が降った 花が散った」という歌詞で始まるので、
『春泥棒』での花(妻の命)が散った後の曲だと取れます。
「花が散った ただ染まった頬を想った」の頬は、
『春泥棒』の「何か頬に付く」、つまり桜に染まった頬と思えます。

花が散って、「声はもうとっくに忘れた 想い出も愛も死んだ」のかなと。
春泥棒に「愛を歌えば言葉足らず〜花開いた今を言葉如きが語れるものか」とあります。
言葉で語れない花(愛)が散って葉(言葉)が残るだけだから、
言葉を乗せていた声を忘れ、愛も亡くなってしまうと。

「愛を、底が抜けた柄杓で呑んでる」は、
春の何も無い部屋、桜の花(愛)の無い部屋で、必死に愛を想い出そうとしてるように思いました。


「嘘月」の漢字を分解すると
うつろな月を口にする」という文にできます。
歌詞でも「夜みたいで 薄く透明な口触り」の「月光を呑んでる」ので、この文章は曲に合っている気がします。

「風のない海辺を歩いたあの夏へ」の後に風鈴っぽい音が鳴るのは、風鈴が鳴るくらいの風があった事も忘れてしまったのかなと。
逆に「声はもうとっくに忘れた」は、声を忘れたと分かるくらいには、君の事を覚えていたと取れます。


「君の鼻を知っていない」は「君の鼻歌が欲しいんだ」に、
「君の頬を想っていない」は「ただ染まった頬を想った」に繋がります。
一人で月を見ながら「君の目を覚えていない」こと、
「そうなんだ、って笑ってもいい」と思いながら、君の笑う口を描けないことに気付くのかなと。



創作特設サイトのインタビューによると、嘘月は尾崎放哉の晩年をイメージして作った曲らしいです。
尾崎放哉の句からの引用(盗作おじさんが言うところの、広義での盗作)が多い嘘月は、
『盗作』ではなく『創作』に収録されてること自体が嘘(偽り)なのかなと。


嘘月という曲名は(エイプリルフールのある)四月と思えます。
『創作』(アルバム)は春がテーマですし、
「良い月を一人で見てる」の「良い」を
よい=41 とすると、4月1日(エイプリルフール)になります。

春泥棒を踏まえると、
「何も無い部屋で春になった」
=妻のいない部屋で春になった と思えます。
春が来る度、妻がいない事を思い知らされるのかなと。
妻のいない花見の季節を、嘘だと思いたいのかもしれません。



「一」と「云」を合体すれば「去」なので、
「物一つさえ云わないまま 僕は君を待っている」は、
去ることができないまま、君が帰ってくる期待を捨てられないと取れます。

「云」は「会」に似ています。
「会」の上部分の 𠆢(ひとやね) がない、と思うと、
人(君)がいない事、会えない事を表している気がしました。

「云」は雲の原字で、
「云わないまま僕は君を待っている」は、雲はないまま、表情が曇らないままとも取れます。
終盤に「云わないまま僕は君を待っていない」とある事から、
曇らないというのは嘘で、宝石じゃない涙(雨)が頬を伝っていたのかなと。


嘘の月を逆にすると、本当の日、本日になります。
嘘月は、今(本日)じゃなく過去を見てるって事かなと思いました。


『三月と狼少年』に「本当のこと 隠したこと 何も言わないままじゃ嘘だ」とあり、言わないことを嘘としています。
ナブナさんの中には 言わないこと=嘘 という発想があるのでしょう。

「創作」という言葉には、嘘という意味もあります。
創作=嘘=言わないこと
とすると、『創作』(曲)に言葉(歌詞)がない事に繋がるなと。

噓月の「物一つさえ云わないまま 僕は君を待っている」は、
何も言わずに待つのは、自分の気持ちに嘘を吐くのと変わらないのかなと。
「物一つさえ云わないまま」君を待つ情景を曲にしたものが、『創作』というインスト曲なのかもと思います。

創作(アルバム)に中身のない(CD無し)バージョンがある事と、
創作(アルバム)の真ん中の曲(創作)に歌詞が無い事は対応していそうです。



創作特設サイトによると「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉が『噓月』ができたきっかけらしいです。
嘘=創作、泥棒=盗作 とすると
創作は盗作の始まり、となって面白いです。

盗作だと言わなければ(≒嘘をつけば)、創作した物として扱われます。
ナブナさんが盗作と創作には大きな違いはないと(創作特設サイトインタビューで)言っているのは、その意味も込めている気がしました。

『噓月』は物語での「僕」が音楽泥棒になる前の、音楽泥棒の始まりの曲と思えます。
嘘月は音楽泥棒の始まりなのかなと。
盗作(アルバム)の最初の曲『音楽泥棒の自白』の自白(事実だと認めること)が、嘘つきの逆で、意味が対になっています。
嘘つきが泥棒の始まりなら、自白は泥棒の終わりだなと。

創作(アルバム)は盗作(アルバム)の前日譚と取れます。
嘘月は創作(アルバム)の最後の曲だから、創作から盗作へ移る過程の曲で、噓月は盗作(泥棒)の始まりなのかなと。

自白と白日は似ています。
白日の下に晒すという言葉があるので、
嘘月は泥棒の始まり
白日は泥棒の終わり かなと。
真っ赤な嘘とすれば、嘘月は赤い月と思えます。
月光(嘘月)で始まり日光(白日)で終わるとすると、『盗作』は夜の間の物語だったのかもしれません。


「誕」には「いつわり」という意味があります(言葉が延びると書くので)。
嘘月は誕生月でもあるのかなと。
「嘘つきは泥棒の始まり」を意識した曲なので、泥棒の誕生、盗作おじさんとしての始まり(誕生)の歌だと思いました。



噓月を偽りの月と思うと「水中から見た月光のような日光」の事にも取れます。
「ただ微睡むよう」に、月光のような日光を見ているのかなと。
「夜みたいで 薄く透明な口触りで」とあるので、夜みたいで夜ではないとすると、本当は昼の日光なのかもと。

ノーチラスでは、水中からの浮上を夢から覚めることに喩えています(エルマ特設サイトより)。
藍二乗(君が引かれてる0の下)は、海抜0mより下と取れます。

「物一つさえ云わないまま僕は君を待っている」は、
プラス1しない(1つを云わない=去らない)まま、水中から浮上しないまま、眠りから覚めないまま、と取れます。

ノーチラスでの眠りは死や別れの暗喩(エルマ特設サイト)なので、
噓月の僕は君との死別を認められないまま、君を待っているのかもと思いました。


夜は、今日と明日の間にあります。
ヨルシカにおける生まれ変わりの、今世と来世の間を夜と呼んでいるように感じました。

嘘月は「さよならすら云わないまま 君は夜になって行く」で終わりますが、夜はそのうち朝になります。
君がさよならを云わなかったのは、またいつか会えると知っていたからなのかもしれません。


「君を待っている」が最後に「君を待っていない」になるのは、本当だった出来事が忘れられ、無かった事、嘘になったのかなと。
「昔の僕」は本当に月光を呑み、涙が宝石で出来ていたのに、
歳を取るにつれ現実的になり、空想(嘘)という事にしてしまったと。

月光を呑む≒月を食む≒月食 とすると、
月食は滅多に見れないので、月食を見た事も次第に空想(嘘)と思えてしまうのかもしれません。
嘘月≒真っ赤な嘘の月≒赤い月≒月食 とも取れます。


「そうなんだ、って笑ってもいいけど」の「そうなんだ」を逆から読むと、
だんなうそ=旦那嘘
になります。
旦那(盗作おじさん)が嘘をついていると、暗に言っているのかなと。
そうなんだ=僧なんだ とも取れます。
月光を呑むのは、霞を食べるみたいで仙人っぽいです。

そうさく(創作)を逆から読むと、
くさうそ=草嘘
になります。
『創作』というアルバム名が、妻の嘘(『盗作』小説での、一輪草が夏にも咲くという嘘)を指している気もします。


嘘月は、夏目漱石の『月が綺麗ですね』の噂の真偽が分からない、嘘かもしれないって事を意識してる気がしました。
「こんな良い月」を見ているのが嘘で、ずっと想い出の中の君を見ていたのかなとか。

『月が綺麗ですね』は、野暮なことは言わないという精神だと思います。
どんな言葉でも嘘になり得る、だから「物一つさえ云わないまま」君を待っているのかなと。

晩年の尾崎放哉を意識した曲らしいので、嘘月の「夜」は、晩年という意味もある気がします。

以上です。